ノート:ラッセルのパラドックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
床屋のパラドックスは入れておいても面白いような気はしますね。Buyobuyo 2007年10月20日 (土) 07:49 (UTC)
- うーん..13:41, 19 October 2007 (UTC) の編集はあまりに小ネタに走りすぎていると思って差し戻してしまったのですが、英語版のen:Russell's paradox#Russell-like paradoxesにようにパラドックスの「作りかた」をちゃんと説明して一個ぐらい例としてあげておくのならいいのかもしれません。--Makotoy 2007年10月20日 (土) 10:25 (UTC)
[編集] ラッセルのパラドックスとZFC
「公理的集合論においては、集合として扱える集まりを制限しているので、ラッセルのパラドックスは回避される」というのは、よく聞く通説ですが、不正確です。論理的には逆で、「ZFCにおいて、すべての集合の集合は存在しない。なぜならば、仮に存在すると仮定するとラッセルのパラドックスが生じ、矛盾するからである」となり、ラッセルのパラドックスのほうが、集合の制限の根拠です。 本文の記述は、どう直しましょう? Wd (08:03, 14 January 2005 (UTC) --Makotoy 2007年10月20日 (土) 10:25 (UTC)による追記)
- 興味深いコメントを読んで、一つ小噺など。
- 八 : おい熊さん、驚くなよ。ZFCってやつにおいては、すべての集合の集合は存在しないんだってよ。
- 熊 : えーっ。初耳だねぇ。
- 八 : 驚いたかい? でも本当なんだってよ。聞いたところによると、もしもそんな集合が存在したらだ、たちまちラッセルさんのパラドックスってぇのが生じて、矛盾しちまうんだってんだからよぉ。矛盾だってよ。桑原桑原。
- 熊 : へーっ。矛盾だってかい。そりゃぁ、そんな集合が存在していてはいけないわな。でもさね、八っつぁん。実のところはあるじゃないか、すべての集合の集合ってやつは。違うかい?
- 八 : そういわれてみればそうだなぁ。こりゃまたかつがれたかな。
- ご隠居 : おいおい、八や。さっきいってたあれ... ZFCってやつを忘れてるんじゃあないかい?
- 八 : おっとそうでした、ご隠居。それだ。ZFCってやつで考えると、すべての集合を集めたものっていうのは集合とはいわないんだそうだ。
- 熊 : 一体全体なんなんだい、そのZFCってやつは? よくわからないけど、今言ってたのは、お前さんが最初に言ったことを繰り返してるだけじゃないのかい?
- すみません。真面目にやります。ZFCでは、仰る背理法によらなくても正則性の公理というやつのおかげで、すべての集合を集めたものを排除できるのではなかったでしょうか? - Kk@「Wiki Way」紹介中
ラッセルのパラドックスに持ち込んでも証明できます。正則性公理(別名 基礎の公理)を使っても証明できます。一つの定理に複数の証明があるのは、珍しい話ではありません。
ただし、一般に、より少ない前提で証明できるほうがうれしいことが多く、その意味では、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明のほうが、正則性公理を必要としない便利さがあります。特に、最近では、ZFCの正則性定理をその否定またはその否定を導くより強い公理(総称して、反基礎の公理と呼ばれる)に置き換えた集合論の研究が進められているので、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明はそんな集合論でもZFCでと同様に使えて便利です。 Wd 2005年1月14日 (金) 15:35 (UTC)
- 丁寧なお返事、ありがとうございます。私のほうはなんだかふざけた調子に見えたかもしれません。失礼いたしました。
- 私は最近の動きのほうは詳しくないので、どう書けばよいかはよくわかりません。周辺事情も含めて記述をより正確に、より充実させるのは歓迎されるだろうと思います。「Wikipedia:ページの編集は大胆に」をお読みになったことはおありでしょうか? 詳しい方がどんどん書き直してみるのが良いと思います。
- ところで、一つの定理に複数の証明がある場合にそのうちのどれかについて、通説であり不正確だと断じるのは少し行き過ぎのように思いました。ともあれ、今後とものご活躍を。- Kk@「Wiki Way」紹介中 2005年1月14日 (金) 17:49 (UTC)
- ここからは、ウィキペディアの記事を充実させるという目的からまったく離れて、単に私の興味関心のためにご教示願いたいことです。ラッセルのパラドックスに持ち込む証明が有効であるためには、まずZFCが無矛盾であることを示しておかなければいけないのだと思うのですが、その理解で合ってるのでしょうか。- Kk@「Wiki Way」紹介中
とりあえず、事実だけ書いておきました。どうせなら通説批判が欲しいところですが、手に余ります。どなたか、私がこっちにだらだらと書いたものをうまくまとめて本文に持っていっていただけると助かるのですが。
ご質問へのお答えです。まず、『複数の証明の一つを通説とするのは行き過ぎ』についてですが、正則性公理を使った全ての集合の集合の不在証明が通説だということではありません。この証明を『公理的集合論では集合を制限しているのでラッセルのパラドックスが回避される』の根拠とすることが誤った通説だということです。この証明は、「そのような集合が存在するとそれは正則性公理を満たさない、ゆえに、そのような集合は存在しない」というものです。これは、ラッセルのパラドックスとは直接の関係はありません。
仮にZFCが矛盾しても、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明は依然として妥当です。その場合は、全ての集合の集合の存在と不在の両方が証明できてしまいますが、どちらの証明も妥当です。矛盾するのだから、それで間違いありません。(まあ、ZFCが矛盾するだろうとは、誰も思っていませんが)
あと、相談です。ラッセルのパラドックスから全ての集合の集合の不在がどのように導かれるかについても、書いたほうが良いですか? Wd 2005年1月14日 (金) 19:09 (UTC)
- Wdさん、ご回答ありがとうございます。反応が遅れてすみません。少し公理的集合論を勉強しなおしてみてだんだん分かってきました。私がWdさんの言葉を誤読していたかもしれないということや、私が公理的集合論について生半な理解しかしていなかったことなどが。
- それでWdさんが通説だと仰るのは、複数の証明のうちの一つのことを指しているのではなかったこと了解しました。複数の証明の一つを通説とするのは行き過ぎだと云ったことは撤回させてください。私の誤読のせいでよけいな手間をおかけしてすみませんでした。
- どうやら私は「すべての集合を要素とする集合の存在可能性」と「自分自身を要素とする集合の存在可能性」と「自分自身を要素としない集合すべてを要素とする集合の存在可能性」を同一視してしまっていて(― 実際この三者は同値だと思うのですが、同値であることと同一であることは違うという意味です ―)、それで頓珍漢なことを書いていたようです。つまり、三者のうちどれが存在しても矛盾が生じるのですが、特に三つ目の集合の存在から生じる矛盾をラッセルのパラドックスというのだということを忘れて、他の二つの集合の存在から生じる矛盾をも私は勝手にラッセルのパラドックスだと見なしていたということです。
- それでも、私はまだこんなことを考えています。正則性の公理から直接「自分自身を要素とする集合の非存在」が導かれます。そうすると、ラッセルのパラドックスは破綻します。まず、「自分自身をその要素として含まない集合をA集合、含む集合をB集合と呼ぶ」とあるうち「含む集合をB集合と呼ぶ」のことはできなくなります(自分自身をその要素として含むものはもはや集合ではないから)。そして集合はすべてA集合です。そうすると「A集合すべての集合をSとする」とあるのは「集合すべての集合をSとする」というのと同じことになりますが、自分自身を要素とする集合はないのですから「集合すべての集合」という概念はナンセンスであることになります。つまりラッセルのパラドックスを構成することすらできなくなります。これはラッセルのパラドックスが回避されていることにならないでしょうか。
- はじめに断ったとおり生半な理解の下に書いているので、何かご助言いただければありがたく思います。- Kk@「Wiki Way」紹介中 2005年1月21日 (金) 13:39 (UTC)
- 書き忘れましたが、ラッセルのパラドックスに持ち込む証明の有効性とZFCの無矛盾性についてお訊きしたのは、ピントはずれでした。とはいえ、この問いに対しても丁寧なお答えを頂きありがとうございました。それでは、今後とものご活躍を。- Kk@「Wiki Way」紹介中