ヘンペルのカラス
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ヘンペルのカラスとは、カール・ヘンペルが提出した、科学における帰納法的実証の手続き上のアポリアを指摘した問題。「カラスのパラドックス」とも呼ばれるが、パラドックスとして扱うべきかどうかには異論もあるため、本稿ではこの呼び方を避ける。
目次 |
[編集] 概要
「ヘンペルのカラス」は「カラスは黒い」事を証明する以下のような対偶論法を指す。
「カラスは黒い」という命題はその対偶「黒くないものはカラスでない」と同値であるので、「カラスは黒い」事を証明するには「黒くないものはカラスでない」事を証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがない事をチェックすれば証明する事ができる。 こうして、カラスを一羽も調べる事無く、「カラスは黒い」という事実が証明できてしまう。
こうした一見、素朴な直観に反する論法を指摘したのが「ヘンペルのカラス」である。 ときに「ヘンペルのカラス」は、それがまるで対偶論法の間違いを指摘した論法であるかのような誤った解説がなされる事があるが、本来はそうではない。
合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ数学的に何の問題もない論法である。 つまり正しくは、「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法なのだと言える。
[編集] なぜ直観に反するか
「ヘンペルのカラス」が直観に反してしまう理由の一つとして、「黒くないもの」の数が想像を絶して大きいことが挙げられる。
通常の命題の場合、その命題の真偽を確かめるには個々の事例を全て調べ尽くすことができればよい。命題の正しさの信頼度合は、調べた事例のパーセンテージに比例して上がって行く(確証性の原理)。
しかし「黒くないものはカラスではない」という命題の真偽を調べる場合はこうはいかない。 「黒くないもの」の数は想像を絶して大きいので、「黒くないもの」を何千、何万と調べても、「黒くないものはカラスではない」という命題の信頼性はほとんど上がらない。 このため「黒くないもの」を全部調べた気分に浸れず、「ヘンペルのカラス」が逆理に見えてしまうのである。
実際、「黒くないもの」の数がもっと常識的な数であれば、ヘンペルの論法も不自然には感じられない。 例として「この部屋のカラスは黒い」事をヘンペルの論法で証明してみよう。 今例えば部屋に10種類のものがあり、その中の一つがカラスであるとする。「黒くないものはカラスでない」事を証明するため、 あなたの友人が部屋の中の黒くないものを順にあなたに手渡す。 カラス以外の9種類があなたに手渡された時点で、友人が「部屋にはもう黒くないものはない」と宣言する。 これはすなわち、部屋に残ったカラスは“黒くないもの以外(=黒いもの)”だという事であり、よってカラスが黒い事が結論される。 (なお、部屋の中にカラス以外の黒いものが存在した場合にも、同様の論法でカラスが黒い事が結論される)。
[編集] 直観主義論理との関係
以上の説明で分かるように、対偶論法は(間違ってはいないものの)ある種の危うさを持った論法だと言える。 この辺の事情をつきつめて考えたのが直観主義論理学である。
前節の説明では、宇宙にあるものの数は有限である事を暗に仮定していたのだが、この仮定を外して逆に宇宙には無限のものがあると仮定すると途端に事情が異なってくる。 「黒くないものはカラスでない」事を証明するために「黒くないもの」が順にあなたに手渡されても、「黒くないもの」は無限にあるのでこの作業は永遠に終わらない。 つまり「黒くないものはカラスでない」事は永久に証明されず、ヘンペルの論法で「カラスは黒い」事を証明することはできなくなる。
通常の論理学では、この作業が不可能であるにもかかわらず、なぜかヘンペルの論法(特にその核心部分である対偶論法)を正しいと認めてしまっている。 つまり通常の論理学では、無限個あるはずの「黒くないもの」をチェックするという、超越的な操作の存在を暗に仮定してしまっているのである。 (だからといって間違っているわけではないが、感覚的には奇妙である)。
そこでこうした超越的な操作や奇妙さを取り除いた、より「直観に合致する」論理学を(通常の論理学とは別に)作ってもよいはずだ。 ヘンペルの論法のような超越的な操作を必要とする証明が可能になってしまったのは、ヘンペルの論法の核心部分である対偶論法が原因である。 よって対偶論法を認めないという立場をとりさえすれば、こうした超越操作や奇妙さが取り除かれるはずなのだ。
直観主義論理学はこのような事情を踏まえた上で作られた論理学で、直観主義論理とは対偶論法から演繹される事実を普通の論理学体系から取り去ったものの事である。
[編集] 白いカラスの実在
論理学におけるヘンペルの指摘とは本質的に無関係ではあるが、 アルビノもしくは白変種のカラス、すなわち「黒くない」カラスは実在する。また、東南アジアに生息するカラスの多くは、腹が白い、全体に灰色であるなど、黒一色でない。
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