フェヴズィ・チャクマク
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ムスタファ・フェヴズィ・チャクマク(Mustafa Fevzi Çakmak, 1876年1月12日‐1950年4月12日)は、トルコの軍人、政治家。長年にわたり参謀総長を務めたほか、トルコ革命中はムスタファ・ケマルの片腕として暫定首相を務めた。
[編集] 経歴
オスマン帝国の帝都イスタンブルに生まれる。陸軍幼年学校を卒業後、1893年に陸軍士官学校に入学して1898年に首席で卒業し、オスマン帝国陸軍で少尉に任官した。バルカン戦争、伊土戦争に従軍。第一次世界大戦でもガリポリの戦い、パレスチナ戦線、カフカース戦線などさまざまな戦線で従軍したが、大戦末期の1918年、オスマン帝国軍事大臣および陸軍総司令官に就任。
しかし1920年にムスタファ・ケマルと共にサムスンに渡り、トルコ革命に身を投じる。このためオスマン帝国政府から欠席裁判で死刑判決を受けた。セーヴル条約で軍備制限されていた軍の実力者としてこれを再建し、ケマルを助けた。イスメト・イノニュがキュタヒャでギリシャ介入軍に敗れたのちは、軍の指揮を引き継いでトルコ軍の潰走を押しとどめ、サカリヤ川の戦いでギリシャ軍の撃退に成功した。ギリシャ軍との最終決戦である1922年のドゥムルプナルの戦いでもケマルと共に軍の指揮を執り、勝利後の8月31日に元帥に列せられた。現在に至るまでトルコ軍で元帥に列せられたのはケマルとチャクマクのみであり、現在トルコ語で「元帥(Mareşal)」という場合、特に注がない限りチャクマク個人を指している。軍司令官であると同時に、トルコ革命中の1921年から翌年まで、アンカラにあるトルコ大国民議会派政府の暫定首相を務めた。
制服を脱いで政治家に転じたケマルやイノニュとは対照的に、トルコ共和国成立後の1924年に大国民議会議員を辞して軍人職に専念、同年から20年にわたりトルコ軍参謀総長を務めた。政策にも隠然たる影響力があり、拡張政策を続けるイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを警戒して、イタリア領ドデカネス諸島の対岸にあたる地中海沿岸地域と中央アナトリアを結ぶ鉄道の建設を、国防上の理由から許さなかった。退役後、多党制移行に伴い国民党を結成して党首となるが、ほどなく1950年にイスタンブルで死去した。
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