ドイツ航空省
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ドイツ航空省(ドイツこうくうしょう、独: Reichsluftfahrtministerium , 略称RLM)はナチス時代のドイツの政府機関(1933年~1945年)で、主に航空機の開発と生産を統括していた。庁舎は、ベルリンのウィルヘルム通りにあった。
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[編集] 特徴
大臣である空軍元帥ヘルマン・ゲーリングの意向を強く反映して運営されており、正式な手続きが無視されることもしばしばあった。結果として、戦時中の航空機の開発は遅延し、一貫性を欠くものになった。このような、独裁主義の弊害とも言える特徴は、ナチス時代の多くの政府機関で見られた。
[編集] 創設期
ドイツ航空省は、1933年4月に前身であるドイツ航空委員会から設立された。ドイツ航空委員会はその2ヶ月前に、ゲーリングの主導で、軍備を禁じられたドイツの、航空戦力充実のための隠れみのとして、設立されていた。航空委員会の管理部門には陸軍から移籍してきたアルベルト・ケッセルリンクがいた。この時期において航空省は、ゲーリングの個人的なスタッフの集まり同然の組織であった。
航空省は、最初の活動として、世界恐慌のあおりを受けて経営不振におちいっていたフーゴー・ユンカースが所有する航空機製造会社を国営化し、特許などの権利を接収した。
[編集] ドイツ空軍の誕生とその後
ドイツ国防省ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、航空戦力の重要性を考えると、もはや陸軍附属の組織として運営したのでは、十分に機能することができないと判断した。1933年5月ブロンベルクは陸軍航空部門(Luftschutzamt)を航空省へと移管した。これがドイツ空軍(Luftwaffe)の誕生であると考えられている。航空省はより大きな組織へと変化しつつ、二つの大きな部門、すなわち軍用機部局(LA)と民間航空部局(LB)を持つようになった。
エアハルト・ミルヒが初代次官に就任し、直接、軍用機部局を統括することになった。
9月には部局間の重複を減らす目的で組織の再編が行われた。主な変更点は民間航空部局内のにあった人事部および研究開発部を独立させたことである。再編の結果、航空省は6つの部局、すなわち軍用機部局(LA)、民間航空部局(LB)、技術開発部局(LC)、生産部局(LD)、訓練・人事部局(LP)、中央司令部局(ZA)、を擁することになった。さらに、1934年には補給・兵站部局(LZM)が加えられた。
1936年6月にはエルンスト・ウーデットが技術開発部局長に就任している。
1939年の第二次世界大戦の勃発に続くドイツ空軍の急速な成長にともない、空軍省もゲーリング一人がコントロールすることができない程、大きくなっていった。この時期には、必要とされる航空機の開発は遅れ、機体やエンジンの生産も不振で、慢性的な機能不全を呈するようになっていた。1943年軍用機生産の責任者がミルヒからアルベルト・シュペーアに替わると、状況は劇的に改善された。シュペーアは、硬直化した組織を風通しのよいものに変え、必要な改革を急速に進めた。その結果、航空機の生産は跳ね上がり、政治的な理由で滞っていたHe219などの開発・生産も進捗を見せた。こうして1944年には、米英の激しい空襲が始まる中、ドイツの航空機生産量は最大に達した。
航空省は、ナチスドイツ敗戦の日まで、様々なドイツ軍航空機の開発・製造に支配的な影響を与え続けた。
[編集] 庁舎
航空省の入っていた建物は、ゲーリングの命令で1935年9月から1936年8月の間に建設され、当時ではヨーロッパで最も巨大なオフィスビルであった。テンペルホフ空港の設計を行ったエルンスト・ザーゲビールが手がけた。現在ではドイツ連邦財務省(de:Bundesministerium der Finanzen)が入っている。