ダニエル・ペドロサ
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ダニエル・ペドロサ(Daniel Pedrosa Ramal、1985年9月29日 - )は、スペイン、カタルーニャ州バルセロナ県サバデル出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。エントリーネームはダニ・ペドロサ(Dani Pedrosa)。
2003年ロードレース世界選手権GP125チャンピオン。2004年・2005年同選手権GP250チャンピオン。
2006年より同選手権最高峰のMotoGPクラスにレプソル・ホンダから参戦中。
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[編集] 来歴
[編集] レース開始からスペイン選手権参戦まで
ダニエル・ペドロサは4歳でバイクに乗り始め、1996年からスペインのポケットバイク選手権に参加。1998年、12歳でチャンピオンを獲得したが、経済的な問題からロードレースを続けることは困難だった。1999年、ペドロサはスペインの大手通信会社・テレフォニカが支援するスペイン人グランプリライダー養成プロジェクト(モビスター・アクティバ・カップ)の存在を知り、これに応募。ハラマ・サーキットで行われた公開テストに参加し8位で完走した。このテストでの活躍が認められ、2000年より監督アルベルト・プーチの率いるチームから、ロードレーススペイン選手権にデビューすることになる。同選手権でペドロサは年間ランキング4位の成績を収めた。
[編集] 125cc - 250ccクラス
2001年、15歳のペドロサはトニー・エリアス、ケーシー・ストーナーらと共に、テレフォニカ・モビスター・ジュニア・チームからロードレース世界選手権125ccクラスに参戦。天才的ともいえるライディングにより初年度から表彰台を獲得するなど、ルーキーながら関係者の注目を集める。2年目の2002年に初優勝を挙げると、3年目の2003年には圧倒的強さを見せ125ccクラスの世界チャンピオンを獲得。
2004年、アルベルト・プーチ監督と共に同選手権250ccクラスにステップアップする。クラス新人ながら開幕戦での激しいバトルを冷静に制し、見事デビューウィンを飾る。その後もシーズンを通じて他のライダーを圧倒し続け、250ccクラス1年目にしてチャンピオンに輝く。シーズン後にはホンダからチャンピオン獲得のご褒美としてMotoGPマシン・RC211Vのテストライドも経験し、翌年からMotoGPクラスにステップアップするかと思われた。しかし、後述する体格の問題からステップアップを見送り、2005年も250ccクラスに参戦する。チャンピオンとして追われる立場になってもペドロサの強さは変わらず、2年連続のチャンピオンを獲得してみせた。
[編集] MotoGPクラス
[編集] 2006年
3年連続チャンピオンとして、満を持して最高峰MotoGPクラスにステップアップしたペドロサは、ホンダのワークス・チームであるレプソル・ホンダに加入した。ホンダはバレンティーノ・ロッシのヤマハ移籍以後2年連続でライダータイトルを奪われており、秘蔵っ子ペドロサにタイトル奪還を期待してワークスライダーのシートを用意した。その期待に応えるようにペドロサはデビュー戦から優勝を争い、4戦目となる中国GPで早くも初優勝を遂げる。その後イギリスGPで2勝目を記録、その他のレースでもコンスタントに表彰台を獲得し、最終的にランキング5位で最高峰クラスデビューシーズンを終えた。
[編集] 2007年
2007年、引き続きペドロサはレプソル・ホンダから参戦。技術規則の変更でMotoGPクラスのマシン排気量が800ccに縮小し、加速力が落ちること、マシンもコンパクトになることなどから、軽量・小柄なペドロサにとっては有利な状況になると予想され、有力なチャンピオン候補と目されていた。開幕戦カタールGPはドゥカティワークス・チームに移籍したケーシー・ストーナーが優勝し、ペドロサは3位表彰台でシーズンをスタートする。最終戦バレンシアGPでは年間王者となったストーナーを下してシーズン2回目の優勝を記録。この結果、バレンティーノ・ロッシを1ポイント差で逆転して年間ランキング2位を獲得した。
2008年はバイクナンバーを昨年までの「26」から前年度ランキングの「2」に変更。チャンピオンナンバー「1」の獲得を期して、最高峰クラス3年目のシーズンに臨む。
[編集] 記録
2006年5月14日の中国GPにてチームメイトで先輩のニッキー・ヘイデンを抑え、MotoGPクラス参戦4戦目、20歳227日で初優勝を飾る。この記録は1996年の阿部典史と並び、史上2番目の若さでの優勝となる。
[編集] 人物
- 若手ライダーに似合わない冷静で落ち着いた性格から、テレビで優勝に喜ぶシーンが放映されると、実況者に貴重な映像とコメントされる。雑誌等の取材でも常に謙虚で控えめな発言をする。
- 監督であるアルベルト・プーチのプロライダーとしての指導に忠実に従い、精神面・技術面を強化してきた。特に精神面での指導は厳格であり、ライバルである他のライダーとのコミュニケーションをとることを禁じられている。そのため、ペドロサはチームメイト以外のライダーとはほとんど口を利かない。これはペドロサに限らず、プーチ監督が指導するライダー全般に言えることである。
- 身長158cmと、他のスポーツに比べて小柄な選手が多いモーターサイクル界でもとりわけて小柄な選手である。2004年の250ccクラスで総合優勝した後、翌年MotoGPに参戦せずに引き続き同クラスに参加したのも、小柄すぎる体格のためだった。そのお陰で250ccクラス2年連続制覇という偉業を成し遂げる。当時43kgだった体重を、筋肉トレーニングを経て51kgまで増やし、2006年、満を持してMotoGPクラスに参戦した。
- ヨーロッパ出身のGPライダーとしては珍しく、マシンはGPデビュー以来ホンダ一筋というホンダ系ライダーである。
- ペドロサは以前スペインメーカーのヘルメットを使用していたが、2005年シーズン中に当時のチームメイト・青山博一が日本のアライヘルメットを使用していた関係で同社のヘルメット「RX-7RR4」をテストした。特に雨の日のシールドの曇りに不満を持っていたペドロサだったが、アライ製ヘルメットのシールドが雨でも曇らないことに感激。その後、シーズン中にもかかわらず前メーカーとの契約を解除してアライと契約した。
- 一時期、経済的な理由からオートバイ競技を離れ自転車競技に転向していたが、アルベルト・プーチに発掘され現在に至る。現在の趣味もサイクリングである。
[編集] 戦績
- 4歳 - モーターサイクルに乗り始める
- 12歳 - ポケットバイクスペイン選手権チャンピオン
- 2000年 - モビスター・ジュニアチーム
- ロードレーススペイン選手権125ランキング4位
- ロードレース世界選手権GP125ランキング8位
- 2002年 - テレフォニカ・モビスター・ジュニアチーム/ホンダRS125
- ロードレース世界選手権GP125ランキング3位
- 2003年 - テレフォニカ・モビスター・ホンダ125cc/ホンダRS125RW
- ロードレース世界選手権GP125チャンピオン
- 2004年 - テレフォニカ・モビスター・ホンダ250cc/ホンダRS250RW
- ロードレース世界選手権GP250チャンピオン、ルーキー・オブ・ザ・イヤー
- 2005年 - モビスター・ホンダ250cc/ホンダRS250RW
- ロードレース世界選手権GP250チャンピオン
- 2006年 - レプソル・ホンダ・チーム/2勝〔中国、イギリス〕ホンダRC211V
- ロードレース世界選手権MotoGPランキング5位、ルーキー・オブ・ザ・イヤー
- 2007年 - レプソル・ホンダ・チーム/ホンダ2勝〔ドイツ、バレンシア〕RC212V
- ロードレース世界選手権MotoGPランキング2位
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
2008年のMotoGP世界選手権を戦うチームと出走ライダー | |||||||||||
マルボロ・ドゥカティ | レプソル・ホンダ | フィアット・ヤマハ | リズラ・スズキ | カワサキ | |||||||
1 | ストーナー | 2 | ペドロサ | 46 | ロッシ | 7 | バーミューレン | 13 | ウエスト | ||
33 | メランドリ | 69 | ヘイデン | 48 | ロレンソ | 65 | カピロッシ | 21 | ホプキンス | ||
アリーチェ・ドゥカティ | サンカルロ・ホンダ | JIR・ホンダ | LCR・ホンダ | Tech3・ヤマハ | |||||||
24 | エリアス | 15 | デ・アンジェリス | 4 | ドビジオーゾ | 14 | ド・ピゥニエ | 5 | エドワーズ | ||
50 | ギュントーリ | 56 | 中野 | 52 | トスランド | ||||||