オットー・リリエンタール
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オットー・リリエンタール(Otto Lilienthal, 1848年5月23日 - 1896年8月10日)はユダヤ系ドイツ人で、初期の航空工学(応用空気力学)の発展に貢献した航空パイオニアの1人。
ハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する試験を繰り返したことで知られる。約7年間その飛行試験に従事したが、1896年8月9日、飛行中に風にあおられてバランスを失い墜落し、脊椎を折った。翌日、48歳の若さで死去した。最期の言葉「犠牲は払われなければならない (Opfer müssen gebracht werden)」は有名。
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[編集] 実験
リリエンタールは、初期には回転アーム(“whirling arm”。風洞とは逆に、静止した空気中で翼模型を回転運動させる実験装置)を利用して、また後には自然風中で翼型の実験を行い、単なる板状の翼型をした平板翼よりも、翼弦の中央付近がふくらんだキャンバ翼の方が高性能であることを示した。
[編集] ライト兄弟への影響
1889年に発行した研究資料・実験記録『航空技術の基礎としての鳥の飛行』には、自然風中での実験により得た円弧翼のデータが含まれていた。ライト兄弟は、オクターヴ・シャヌートの手を経て一部が英訳されたこの本を入手し、彼らが「リリエンタールの表」と呼んだこの翼型データも利用して、1900年と1901年にグライダーを製作した。しかしながら、いずれも計算通りの十分な揚力が得られなかった。これは、以下のような点が原因だったとされる。
- リリエンタールの表は、中央付近がふくらんだ円弧状の翼型、かつ、翼端がとがった翼平面形についてのデータであったのに対して、グライダーには前縁付近がふくらんだ翼型、かつ、ほぼ矩形の翼平面形を採用したこと
- 不正確なスミートン係数を使用したこと
- アスペクト比が小さすぎた(これはリリエンタールの表とは直接関係しない)
リリエンタール自身も誤ったスミートン係数を使用しており、ライト兄弟もそれを根拠として使用したと思われるが、計算過程でその影響は打ち消されていたため、「表」の数値そのものは正しかった。ところが、はじめライト兄弟はこれに気づかず、次第に「表」の数値そのものを疑うようになり、結局、自分たちで風洞実験を行って正しいスミートン係数を得た。ただし、彼らも後には「表」が適用できる条件を正しく認識したようである。
[編集] 動力飛行の試み
墜死の直前期、リリエンタールが動力機の開発に取りかかっていたことは有名である。しかし彼が飛ばそうとしていたのが固定翼機ではなくオーニソプターの一種であったことはあまり知られていない。それは炭酸ガスエンジン(圧縮空気エンジン)を動力としていた。特許取得(1893年)の後、1号機(1894年)と2号機(1896年)が作られた。前者は2馬力の小型機で、後者はその大型化版(翼面積20平方メートル)であった。彼の死の事情を正確に言うと、有名な墜落が起きたのは2号機で動力飛行を試みる前、エンジンを外した状態で滑空試験をしている最中のことであった。
「もしも1896年の墜落事故がなければ、人類初の動力飛行は、ライト兄弟の登場を待つことなくリリエンタールによって成し遂げられていただろう」という論調がかつては有力だった。しかし彼の動力機がオーニソプターであったことから、今日ではその考えは疑問視されている。むしろライト兄弟がリリエンタールの死をきっかけとして、自ら飛行機開発を始めた事から、むしろ人類初の動力飛行を早めたと言えるかもしれない。
オットーの弟、グスタフ・リリエンタール(彼は主に初期の頃、実験の協力者であった)は兄の死後、その後をついでオーニソプターの研究開発に取り組んだ。グスタフは1933年に病死するまでそれを継続したが、さしたる成果は得られなかったという。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- オットー・リリエンタール 『鳥の飛翔』 田中豊助 原田幾馬 訳、東海大学出版会、2006年、ISBN 978-4486031765
- John D. Anderson, Jr., A History of Aerodynamics and Its Impact on Flying Machines, Cambridge University Press; 1997, ISBN 978-0521454353 (hardcover); 1999, ISBN 978-0521669559 (paperback)
- 鈴木真二 『ライト・フライヤー号の謎』 技法堂出版、2002年、ISBN 978-4765544313
- ロルフ・シュトレール 『航空発達物語』 松谷健二 訳、白水社、1965年