エイドリアン・ボールト
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サー・エイドリアン・セドリック・ボールト(Sir Adrian Cedric Boult, 1889年4月8日 - 1983年2月22日)は、イギリスの指揮者。
イギリスのチェスター生まれ。ウェストミンスター・スクール在籍中のディナー・パーティでエドワード・エルガーに出会う。この時エルガーは少年だった後の指揮者に自作の総譜を見せながら解説したという。その後オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に入学、マックス・レーガーに作曲を師事する。また、この時期にライプツィヒで活躍していたアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受ける。
1914年コヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽スタッフとしてプロデビュー。1918年、ホルストの組曲『惑星』の試演、翌1919年、「金星」と「海王星」を除く初演のいずれも指揮。
1920年、初演以来忘れられていた作品と化していたエルガーの交響曲第2番を再演、成功を収めこの作品の再評価のきっかけを作る事になる。この快挙に対し、作曲者のエルガーはボールトに手紙を書いて業績を称えている。ヴォーン・ウィリアムズの『ロンドン交響曲』改訂版を初演。
1924年、バーミンガム市交響楽団指揮者。
1930年、BBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、この時期ボールトは同時代の音楽にも目を向けており、ベルクの『ヴォツェック』のイギリス初演などを指揮している。
1937年、ナイトに叙せられる。
1951年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。
1959年-60年、再びバーミンガム市響の音楽監督。
1977年10月12日、最後の公開コンサート。
1978年 5月-7月 ホルストの組曲『惑星』をレコーディング。
1981年、引退を宣言。
1983年、死去。
ボールトはエルガー、ヴォーン・ウィリアムズなどイギリス音楽を得意とし、ホルストの『惑星』は5回も録音するなどスペシャリストとして知られる一方で、同じイギリス音楽でもディーリアスやブリテン、ティペットとは縁遠い存在だったと言われる。ディーリアスに関しては音楽的な面で嫌悪していたと言われており、またブリテンに関してはブリテンがボールトの指揮ぶりを批判したことに対する「仕返し」と言われている。また、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーなどドイツ音楽でも虚飾を排した格調の高い演奏で評価が高い。
しかし、『若い指揮者は細部にこだわりすぎて全体的な構成をないがしろにしている』と苦言を呈していたボールトの指揮は、派手さに欠けるため、働き盛りの時代には、トーマス・ビーチャム、マルコム・サージェント、ジョン・バルビローリといったスター性のあるイギリス人指揮者の陰に隠れた存在であった。ビーチャムらの没後、1970年ごろになってようやくその真価が見出されたとき、ボールトは80歳近い高齢であった。この世代の指揮者には『聴衆のいない録音スタジオでは気分が乗らない』というアーティストが多く見られるが、ボールトは『全く変わらない』と断言していたという。EMIレーベルに晩年の録音が多く残されている。
ボールトに師事した指揮者にロジャー・ノリントン、ダグラス・ボストックがいる。
著書にThoughts on Conducting(日本語版は『指揮を語る』。出版:誠文堂新光社、翻訳:岡崎昭子)がある。
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