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ノート:アウグスブルクの和議 - Wikipedia

ノート:アウグスブルクの和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アウクスブルクの宗教和議に至る背景の所で、ウィーン包囲撃退後に第2回シュパイエル帝国議会開催とありますが、シュパイエル帝国議会が4月、ウィーン包囲は9月からであり、こうした因果関係はありません。その辺りについて一部訂正しました。--Hasi 2006年7月9日 (日) 05:40 (UTC)

ちょっと疑問なのですが、第一次ウィーン包囲に以下のような記述があります。

>ところが、オスマン軍がバルカン半島への侵攻の度合いを強めると、
>皇帝カールは前言を撤回し、ルター派の活動を容認する立場に転化した。
>もちろんこれは国内の対立を一時凍結して、オスマンの侵攻への防御に
>全力を傾けるための方策であり、また詭弁に近かった。実際カールは
>オスマンがウィーンから撤退をはじめるとすぐさまこの発言を撤回している。

しかし一方、オスマン撤退の原因は冬が近づいた事との記述もあります。 ルター派の再禁止とオスマンの撤退の関係はどのようになっているのでしょう。 オスマン撤退を受けて再禁止されたわけではないようですが、このあたりの因果関係がよくわかりません。 --Gulf 2006年8月7日 (月) 14:11 (UTC)

Hasiです。はじめまして。私の理解の範囲内ですがお答えさせていただきます。シュパイアー帝国議会という項目を投稿してみましたので、こちらもご参考になればと思います。

ルター派再禁止(第二回シュパイアー帝国議会)の問題は、もっぱら神聖ローマ帝国内の諸侯間における対立(というかカトリック側の巻き返し)です。ウィーン包囲の半年も前に第二回シュパイアー帝国議会の決定はなされているので、「ウィーンから撤退をはじめると(カール5世は)すぐさまこの発言を撤回している。」というのは論理的にありえず、因果関係自体が存在しません。単なる事実誤認だと思われます。ただ、第一次ウィーン包囲が冬の撤退を一要因として撤退に至ったのは正しい記述です。(余談ですが、そもそもカール5世は、1521年のヴォルムス帝国議会後から1530年まで、フランスとのイタリア戦争などに追われて神聖ローマ帝国内に戻っていません。ご参考までに。)--Hasi 2006年8月8日 (火) 18:01 (UTC)

Gulfです、お答えいただきありがとうございます。

手元の資料をあたってみましたが、因果関係としてはやはり「ウィーン包囲に失敗したため」とする資料が多いようなのですが。具体的には、山川の出版社の『世界史Q&A』(1993)などです。 --Gulf 2006年8月9日 (水) 13:28 (UTC)

うーん、そうですか。たびたび繰り返してしまって恐縮なのですが、1529年10月に終わったことを理由に、1529年4月に何らかの決定を下すということは物理的に不可能だと自分は考えているのです。勉強し直したいので、よろしければ「ウィーン包囲に失敗したため」と書いてある、その他多くの資料名も教えていただけますか。私の今持っている書籍でそういった記述を探してみましたが、残念ながら「ウィーン包囲失敗ゆえにルター派再禁止」という説明は見つけられませんでした。用いた本は以下のものと、「ウィーンの歴史」の項目の参考文献です。
  • 『世界歴史大系 ドイツ史1』山川出版社、1997年(参考として日常使っている書籍です。)
  • 『世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』山川出版社、2002年
  • 『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
  • 『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論社、1998年
  • 『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、1997年
  • 『オスマン帝国衰亡史』中央公論社、1998年
それでは失礼します。--Hasi 2006年8月9日 (水) 15:15 (UTC)

Gulfです。撤退の直接の原因は冬の到来なのでしょうが、状況の優劣はそれ以前から知ることは出来たはずです。よって論理的に不可能ということはないと思います。

ウィーン包囲開始・終了との因果関係を示したものとしては、受験用教材ばかりでもうしわけありませんが、たとえば『青木世界史実況中継』で確認しました。受験用教材はいずれも該当箇所の記述が酷似しているので、同一の資料を基にしているのかもしれません。一般書としては『プロテスタントの歴史』(エミール・レオナール 1968初版)にて「カール5世は勝利で肩の荷が降りると1529年6月にシュパイエルに国会を召集し、前回の譲歩を取り消した。」という記述がありました。 上で教えていただいた文献はまだ見ておりませんので、後日そちらも調べてみます。--Gulf 2006年8月10日 (木) 16:07 (UTC)

了解です。アウクスブルクの和議から話が外れてしまっていますので、Gulfさんのノートにご連絡しますね。--Hasi 2006年8月12日 (土) 06:47 (UTC)


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