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アイヌ文化 - Wikipedia

アイヌ文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アイヌ文化(あいぬぶんか)とは、アイヌ民族の成立から現在までに至る歴史の中で生み出されてきた文化である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。

目次

[編集] 総説

アイヌ文化という語には二つの意味がある。一つは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ族の保持する文化様式を指す用法であり、この場合は現代のアイヌ族が保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もう一つは考古学的な視点から、北海道島の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。

注意すべきなのは、考古学的な意味でのアイヌ文化とは擦文文化を担った人々が時間経過とともに新たな文化要素を創出・移入することで到達した新しい文化様式だということであり、擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道島に進入してアイヌ文化を形成したわけではないということである。これは、日本民族が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。

ここで問題となるのは、アイヌ文化という一つの語が「ある民族集団の文化」と「歴史上のある時期に存在した文化様式」のいずれも意味するという状況のわかりにくさである。アイヌ族は現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送っているわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌ族は考古学的な意味でのアイヌ文化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌ族の保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。

瀬川拓郎は2007年にこうした問題の存在を指摘し、中世から近世にかけての(考古学的な文脈での)「アイヌ文化」を、北海道考古学史上最も重要な遺跡の一つである二風谷遺跡にちなんで「ニブタニ文化」と呼ぶことを提案している。

本項では「近世以前のアイヌ」節において考古学・歴史学的な意味での「アイヌ文化」について主に解説し、「近代のアイヌ」「現代のアイヌ」節において、文化人類学・社会学的な意味での「アイヌ文化」について主に解説する。

[編集] 近世以前のアイヌ

考古学的な意味でのアイヌ文化は、鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、骨角器の狩猟具、鮭漁用の鉤銛、伸展式の土葬など物質文化面での特徴を目印としている。またアイヌ文化には地域によって差異が存在していたことが知られている。間宮林蔵の『北夷分界余話』によると、サハリンに居住していたアイヌは犬橇スキーを使用するなど、オホーツク文化からの影響を伺わせる文化要素を取り入れていた他、近世に入っても土器の製作、竪穴式住居の使用という、北海道では中世アイヌ文化に限られる文化要素を保持していた。の形状も北海道のアイヌとは異なり、胸甲と腰部の装甲が一体となった独特のものであった。

サハリンのアイヌはミイラ製作を行うという点でも注目を集めている。ミイラ製作はオホーツク文化圏でも北海道島のアイヌ文化でも行われない。

[編集] 社会構成

アイヌの晴れ着(大英博物館蔵)
アイヌの晴れ着(大英博物館蔵)

アイヌ文化が成立した時期のアイヌはコタン(小村・大体5、6軒)単位で生活を営んだと考えられている。その後、15世紀頃から交易や和人あるいはアイヌ民族同士の抗争などから地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には和人から惣大将と呼ばれる河川を中心とする複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力な首長が現れていたと推察されている。しかし、シャクシャインの戦い後には商場知行制場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなりアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。

また近年、アイヌ社会が極端な富の偏在を伴う格差社会だったのではないかとの説が発表されている。瀬川拓郎は文献資料や墓の発掘調査結果などから、近世アイヌ社会はカモイと呼ばれる首長、その下の階層であるニシパ、平民、そして隷属民であるウタレという4つの階層に分かれており、カモイに富が集中していたのではないかと指摘している。

[編集] 生業

近世以前のアイヌ族の生業は狩猟漁猟、採取(山林・海洋)、農耕、及び交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保するというものであった。をカムイチェプと呼び主食の中心と捉えており、秋に遡上してきた鮭を大量に採集し漁場の近くに構えた専用の加工小屋兼住居で簡単な燻製を施した干物にし、保存食とした。これは自らの自給的な食糧として重要であっただけではなく、和人との交易品としても大量に確保する必要がある、主要産品のひとつであった。

農耕も行われたが、生業の基幹を為すものではなかった。ただしこれは農耕が不可能であったからというより(擦文文化期には広範に農耕が営まれていたし、洞爺湖町の高砂貝塚などアイヌ文化期の畑跡も数多く発見されている)、日本との交易による経済に特化した為、交易品となる鮭や獣皮、猛禽の羽根などを大量に入手出来るような生業形態となったのではないかとも考えられている。ヒエ(ピヤパ)の栽培が古くから行われ、祭事に用いるトノトというをこれから醸造した。ほかにアワ(ムンチロ)、キビ(メンクル)の栽培も行われた。これらを炊飯したものをチサッスイェプ、かゆに炊いたものをサヨと呼んだ。オオウバユリ(トゥレプ)の球根(鱗茎)から採取・塊状保存した澱粉と、澱粉を採集したあとの滓を発酵させ、乾燥保存したものも主食の一つであり、この澱粉利用の伝統があったので、馬鈴薯が伝わるとすぐに受容した。

シャクシャインの戦いが敗北に終わるとアイヌ族に対する松前藩の搾取体制は強化され、商場知行制、その後の場所請負制の中で、日本人商人による過酷な使役労働に従事させられるようになっていった。

[編集] 宗教

1870年に描かれたイオマンテの様子(大英博物館蔵)
1870年に描かれたイオマンテの様子(大英博物館蔵)

近世以前のアイヌ族の宗教汎神論に分類されるものである。彼らは動植物、生活道具、自然現象(津波や地震など)、疫病などがそれぞれ霊性を備えていると考えており、これらの事物には「ラマッ」と呼ばれるが宿っていると考えた。また世界を自らの住む現世(アイヌモシリ)とラマッの住む世界(カムイモシリ)に分けて理解し、ラマッは様々な事物に宿り、何らかの役割を持ってアイヌモシリにやって来ていると解釈した。ラマッはその役割を果たすと再びカムイモシリに戻るとされた。

またアイヌの神々は絶対的な超越者ではなく、カムイが不当な行いをした際にはアイヌ側から抗議を行うということもあった。

アイヌ族の宗教儀礼として最も良く知られる熊送りの一種「イオマンテ」は、擦文文化期にはその痕跡が見られず、逆に擦文文化期に擦文文化圏に隣接して存在していたオホーツク文化圏にその痕跡が見られることから、オホーツク文化圏からおそらくトビニタイ文化を経由してアイヌ文化に取り入れられたものと推測されている。このイオマンテは、「熊肉や熊の毛皮をアイヌモシリに届ける為に熊に宿ってやってきたラマッを、盛大な饗宴をひらいてもてなし、多くの土産物を渡してラマッの世界に戻っていただく」という意味合いを持つ。

アイヌの神事はカムイノミと呼ばれ、様々な神に対して行われるが、カムイノミを開始する際には必ず火の神アペチフカムイへの祈りを捧げることになっている。またカムイノミには白木を加工したイナウと呼ばれる木幣が使用される。

また、アイヌ族は日本に編入されるまで神前裁判の風習を色濃く残していた。しかしながら、こういったことが、江戸時代およびび明治維新以降の近代国家建設中の日本人からは十分な理解を得られず、日本人のアイヌ蔑視に結びついたという説がある。

[編集] 住居

平取町立二風谷アイヌ文化博物館で復元されたチセ
平取町立二風谷アイヌ文化博物館で復元されたチセ
1805年に描かれたチセの絵
1805年に描かれたチセの絵

近世以前のアイヌ族の住居はチセと呼ばれる独特の掘っ立て小屋であった。基本構造は掘っ立て柱に樹皮や葦で葺いた屋根、同じく樹皮や葦を用いた開口部の少ない壁面であるが、細部は地域によって違いがあり、例えば太平洋沿岸部でも渡島半島から白老にかけての茅葺きの「キ・キタイ・チセ」、白老から十勝にかけて分布する葦葺きの「シヤリキ・キタイ・チセ」、十勝から国後島にかけて分布する樹皮葺きの「ヤアラ・キタイ・チセ」などの種類がある。なお、チセの面積は最大で100平米(平方メートル)ほどと考えられている。

チセの内部は四角形の一間であることが一般的であった。内部には炉があり、炉の正面の上座となる部分の背面には、カムイ(神)が出入りする為の窓が設けられた。チセの外には子熊を飼う為の檻、食料庫などが建てられた。こうしたチセが数軒から十数軒集まり、「コタン」と呼ばれる村落を形成する。

アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる空間が造営されることも多かった。チャシが造営された時期は16世紀から18世紀と考えられている。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用のであったという説、富裕層の宝物庫であったという説、儀式を行う為の聖域だったという説、物見の為の場所であったという説などがある。これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。

[編集] 宝物

近世以前のアイヌ族は交易によって異文化圏から入手したものの一部を宝物として珍重していた。アイヌ族が宝物としたのは刀剣類、銀器、中国製の絹織物(蝦夷錦)、漆器類、猛禽類の羽根などが主であった。

ちなみにアイヌ族が最も珍重したのは「鍬形」と呼ばれる金属器である。これは厚さ1ミリから2ミリ程度の真鍮の板をV字型に加工したもので、表面は漆や皮、銀メッキされた金具などで装飾されていた。これは何らかの呪具であったと考えられており、原材料の高価さや製造加工の困難さではなく、この物体に宿ると考えられた霊力の強力さ故に重視された。鍬形以外の宝物はヤップ島の石貨などと同じように、稀少財としてアイヌ族の有力者の間で流通していたが、鍬形は他人に譲られることは無く、持ち主が死ぬと岩陰などの隠し場所に隠されたまま行方知れずとなり、朽ち果てていった。

1916年(大正5年)、夕張郡角田村(現栗山町)で発見された鍬形7個の内4個が東京国立博物館に保存されている。

[編集] 交易

中世のアイヌは干鮭、クマや海獣の毛皮、猛禽類の羽根などを日本に輸出し、日本からは各種の奢侈品を輸入していた。輸出品としての鮭を確保する為に生業を鮭漁に特化した集落も存在していた。このように輸出経済を前提とした生業構築は擦文時代中期である9世紀頃に成立し、アイヌ文化に継承されたものである。

また13世紀サハリン侵攻は、ニブフの中に存在した猛禽の羽根を集める職人を拉致する為だったのではないかとの説もある。一方、日本から輸入された奢侈品は富裕層が宝物として所持し、それらを衒示的に消費することで部族内での権威を担保していたと考えられている。

[編集] 口承文芸

アイヌ族はユーカラと呼ばれる口承文芸を持っていた。ユーカラは近代以降、一時的に衰退したが、現在では保存運動が展開されている。詳細はユーカラを参照のこと。

[編集] 衣服

アイヌ民族の衣装としては、イラクサの繊維から作られるテタラヘ・ユタルベなどの草皮衣や、毛皮アザラシの皮・やイトウの皮などで作られる羽織状の上着(獣皮衣、魚皮衣)があるほか、オヒョウなどの木の皮から繊維をとって作られるアットゥシと呼ばれる丈夫な樹皮衣が17世紀以降一般的なものとなった。その他、日本からは木綿の衣装が大量に輸入された。中国からは山丹貿易での衣装も輸入され、各々着用された。絹の衣装は「蝦夷錦」として日本に売られた。またアットゥシも日本各地へ輸出され、服として加工された。

[編集] 刺青

アイヌ族にも刺青をする習慣があった。特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。を模した物であると思われ、男性美の文化であると言える。

徳川幕府、明治時代に入り明治政府がこれを禁じたが、隠れて行なわれることも多く、彼らの文化の重要な位置を占めていた。

[編集]

アイヌ族は文字のは使用しなかったが、代わりに口頭で伝承される暦を持っていた。

  • パイカ(春) マカヨ(蕗の薹)、チライ(イトウ)
  • (夏) トゥレップ(大姥百合の球根)の採集・加工、ニペシ(シナノキの内皮)やアッ(オヒョウの皮)を温泉(無ければ池など)に浸け、繊維を取る。
  • チュ(秋) 
  • マタ(冬) 

[編集] 楽器

パラライキ(バラライカ)。ウマトンコリ(馬頭琴)、カチョー(太鼓)などが存在した。

[編集] 文様

アイヌ族は衣服や道具を伝統的な文様によって装飾していた。こうした文様は12世紀頃のアイヌ文化の成立時には存在していたのではないかとも考えられている[1]

[編集] 近代のアイヌ

[編集] 江戸幕府によるアイヌ文化への干渉

1799年に始まった江戸幕府本体の北海道進出は1807年の松前家梁川転封により、北海道全島の日本による領有へと進んだ。1855年に函館が開港されると、翌1856年には渡島半島南西部の松前藩領以外が天領とされた。この後、江戸幕府はアイヌ族の日本人化を図り、松前藩が禁じていた笠や蓑や草履の着用を解禁した。同時に幕府は髪型や衣服、名前を日本風に変更するよう圧力をかけ、刺青やイオマンテなどの伝統文化を禁じた。しかし、こうした政策はあまり成功しないままに終わった。

[編集] 北海道開拓使によるアイヌ文化への干渉

1869年、明治政府は北海道の領有を宣言し、北海道に居住するアイヌ族を自国民として国籍を作成した。この年、明治政府によって置かれた北海道開拓使アイヌ語の使用やアイヌ族の伝統的な生活文化を事実上禁止し、またアイヌ族が生業を営んできた土地や資源からアイヌ族を排除する政策をとった。また1875年に明治政府はロシアと樺太・千島交換条約を締結し、サハリンや千島列島に居住していたアイヌ族を北海道島や色丹島に強制移住させる政策もとった。これらの政策はアイヌ文化に甚大な影響を及ぼし、アイヌ文化は変質を余儀なくされた。

[編集] 北海道旧土人保護法

1899年には北海道旧土人保護法が施行され、明治政府はアイヌ族への日本語教育など日本民族への同化政策(ただしアイヌ族の子弟は日本民族の子弟とは別の学校に通わされた)をさらに推進した。これらの学校ではアイヌ語やアイヌ文化は教えられることが無く、またアイヌ文化については否定的に表象されるなど、近世アイヌ文化の破壊は更に進んだ。こうした状況は第二次世界大戦に日本が敗れるまで続いた。

[編集] アイヌ文化研究のはじまり

一方、近代になるとアイヌ文化を学術的に研究したり、記録したりする試みが行われるようになった。これは日本民族の研究者とアイヌ族の研究者が中心となった。主な研究者としてはユーカラを記録・翻訳した知里幸恵(アイヌ族)、アイヌ語研究で知られる金田一京助(日本民族)と知里真志保(アイヌ族)などがあげられる。

[編集] アイヌの歌人たち

20世紀初頭、バチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市らアイヌ族の歌人が登場し、近代アイヌの置かれた境遇を文学の分野で表現しはじめた。彼らの作品は現代までアイヌ族の思想に影響を与え続けている。

[編集] 現代のアイヌ

[編集] アイヌ文化研究の進展

後に国会議員にもなった萱野茂(アイヌ族)らは、アイヌ文化研究と資料収集を進め、各地に資料館や博物館が建設された。

[編集] 伝統文化復興運動

1970年代後半からアイヌの伝統文化復興の気運が高まり、平取、白老旭川などでイオマンテが行われた。また1983年には屈斜路湖でシマフクロウの霊を送る儀式も行われている。札幌では1982年より豊平川で鮭の遡上を迎える儀式が行われるなど、アイヌの精神世界を見直す動きが1980年代前半に相次いで見られた。伝統舞踊については北海道内で保存会が20存在し、うち17件は国指定重要無形民俗文化財となっている。また1997年には「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定された。国会議員となった萱野茂は母語であるアイヌ語で国会質問を行ったりアイヌ語辞典を編纂するなど、アイヌ語の保存に取り組んだ。

アイヌの伝統的な舟艇であるイタオマチプを復元する活動も始まり、二風谷ではチプサンケ(舟おろしの儀式)が開催されるようになっている。また知床地域で観光資源としてイタオマチプを建造するグループもある。

なお、ウタリを統括する団体であるウタリ協会は毎年アイヌ民族文化祭を開催している。

アイヌの歴史の積極的な表象も始まり、毎年9月23日には新ひだか町でシャクシャインの追悼法要が開催されている。また敢えてアイヌであることは強調しなかったものの、砂澤ビッキは彫刻家として世界的な評価を得た。

[編集] 文化混淆

OKI率いるアイヌ・ダブ・バンドの演奏風景
OKI率いるアイヌ・ダブ・バンドの演奏風景

近年、隣接する文化圏以外の文化要素を取り入れたり、他地域の先住民と交流する動きも活発になっている。アイヌと和人のハーフであるOKI (ミュージシャン)サハリンのアイヌの伝統楽器であるトンコリ演奏をレゲエダブなどの音楽に持ち込み、いわゆるワールドミュージックの音楽家として世界的に知られている。また同じくアイヌと和人のハーフである酒井兄妹が中心となって結成されたアイヌ・レブルズはラップなどのヒップホップ音楽とアイヌの伝統舞踊やアイヌ語の詩を融合させた作品を発表している。

他地域の先住民との交流活動も近年は珍しくない。札幌を本拠とするグループのアイヌ・アート・プロジェクトは2000年に北米のクリンギット族と音楽や舞踊で共演した他、ハワイマウイ島で毎年開催される国際カヌー・フェスティバルに参加してのイタオマチプ建造なども行った。また2007年には浦川治造ら関東のアイヌが横浜にてハワイ先住民の伝統カヌーの為のカムイノミを開催した。

[編集] イオル再生問題

アイヌ文化には土地の私有という概念は無く、その代わりにコタンが入会権を持つ入会地や漁場が存在しており、コタンで必要な生物資源は基本的にそのコタンの入会地から調達されていた。こうした入会地をイオルと呼ぶ。イオルは「伝統的生活空間」と訳される。日本文化における入会地とは異なり、イオルは生物資源調達の場であると同時に、祭祀などアイヌの精神文化とも密接に関わっている点に特色がある。

しかし明治時代以降、アイヌ文化に対する理解を欠いた日本国政府の政策により、イオルを基盤としたアイヌの生活様式や文化は破壊され、今日までに失われてしまった。そこで近年、問題となっているのがイオルの再生である。

1996年には内閣官房長官の私的諮問機関がイオル再生を政策の一つとして検討対象とし、公園形式でアイヌの伝統文化継承の場としてのイオルを復活させるという提言をまとめた。1998年には北海道が有識者とアイヌの代表者による懇談会を発足させ、1999年に「伝統的生活空間の再生に関する基本構想」がまとめられた。2000年には国土交通省北海道局、文化庁、北海道、アイヌ文化振興・研究推進機構、北海道ウタリ協会が共同で「アイヌ文化振興等施策推進会議」を設置し、イオル再生を含めたアイヌ文化の振興策を検討。2002年に7箇所をイオル再生の候補地として選定した[2]

[編集] イオル再生候補地

  • 中核イオル-白老町[3]
  • 地域イオル-札幌市、旭川市、平取町、静内、十勝、釧路

[編集]

  1. ^ 北海道ウタリ協会
  2. ^ [1]
  3. ^ 伝統的生活空間(イオル)の再生について

[編集] 参考文献

  • 計良光範 『アイヌの世界』 明石書店、1995年、ISBN 4750307203
  • 海保嶺夫『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
  • 瀬川拓郎『アイヌの歴史~海と宝のノマド~』講談社、2007年
  • 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構編『アイヌの人たちとともに-その歴史と文化-』2007年

[編集] 外部リンク


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