高麗年表
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高麗年表(こうらいねんぴょう)とは高麗王朝と周辺国家の出来事を纏めた表。
目次 |
[編集] 890年 - 999年
年 | 高麗 | 日本及び 周辺国 | 高麗王 |
889年 | 弓裔 挙兵 | ||
894年 | 寛平六年新羅の賊、肥前・肥後を襲う | ||
901年 | 開城に国号を高句麗と称し建国(後高句麗) | ||
904年 | 弓裔 国号を摩震に改める | ||
905年 | 弓裔、鉄円(江原道鉄原郡)に遷都して国号を泰封とする | ||
916年 | 北方民族 契丹の遼 成立 | ||
918年 | 王建 弓裔を殺し、高麗建国 | 太祖 |
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926年 | 渤海遺民を受け入れ。 | 北方民族 契丹の遼 渤海を滅ぼす。 契丹皇帝耶律阿保機は長子 耶律突欲を「東丹国」の王とする | |
935年 | 新羅を征服 | ||
936年 | 後百済を征服 | ||
938年頃 | 旧渤海(満洲)に烈万華(在位 938頃-979頃)が「定安国」を建国 | ||
943年 |
惠宗 |
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946年 |
定宗 | ||
949年 |
光宗 |
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956年 | 奴婢按検法 | ||
960年 | 宋(建国) | ||
963年 | 高麗、宋の正朔を奉じる | ||
975年 |
景宗 |
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976年 | 田柴科制 | ||
979年頃 | 定安国第2代王、烏玄明(在位 979頃 -989頃)即位 | ||
981年 |
成宗 |
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983年 | 契丹、高麗を攻める。 | 遼、統和と改元し、国号を大契丹とする。 | |
985年 | 契丹、高麗を攻める。 | ||
989年頃 | 安定国第3代王 旧渤海国の王族である大氏が即位「後渤海国」と改名 | ||
993年 | 遼が朝貢を求めて大規模な侵入。 高麗、契丹に使を遣わす。 | ||
994年 | 高麗国王・成宗 契丹に朝貢, 遼の正朔を奉じる | ||
997年 | 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺 長徳三年 高麗と「南蛮」の賊が攻め寄せた | 穆宗 |
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[編集] 1000年-1199年
年 | 高麗 | 日本及び周辺国 | 高麗王 |
1009年 | 康兆の政変(康兆の乱)。武臣・康兆が王権交代を図るが、後に契丹に殺 される。 | ||
1010年 | 第2次契丹(遼)の侵入『契丹の聖宗(位982~1031)が大軍で侵入』 高麗軍は首都開城を明け渡す。 | ||
1011年 | 高麗の顕宗 講和 | ||
1014年 | 高麗の賊が九州に攻め寄せ、大宰府が討伐する。 | ||
1015年 | 遼の侵略 | ||
1016年 | 北宋から冊封 、朝貢, 北宋の正朔を奉じる | ||
1018年 | 後渤海国滅亡。 遼を一時撃退。 | ||
1019年 | 第3次契丹(遼)の侵入 | 刀伊の入寇(50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、 志摩・早良諸郡で殺戮) | |
1020年 | 高麗と遼の間に講和、朝貢, 遼の分暦 | ||
1022年 | 契丹の正朔を奉じる。再び契丹に服属 | ||
1033年 | 西北境に長城の築造(-1034年) | ||
1037年 | 契丹の侵略 | ||
1039年 | 奴婢従母法 | ||
1046年 | 長子相続法 | ||
1076年 | 田柴科制 | ||
1097年 | 異賊船100隻が日本松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士こ れを撃退。 | ||
1107年 | 高麗睿宗 咸興平野の女真を攻撃し、九城を築く | ||
1115年 | 女真 按出虎水の河畔で「金」を建国 | ||
1116年 | 渤海人高永昌(在位 1116)「大渤海」を建国、皇 帝と称するも金に滅ぼさる。 | ||
1123年 | 仁宗 | ||
1125年 | 金、遼(契丹)を滅ぼす。 | ||
1126年 | 李資謙の乱 →李資謙、王毒殺の嫌疑で霊光郡に流される。 高麗国王・仁宗 金に服属高麗は金国の藩となる(西夏藩・高麗藩・斉藩) |
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1127年 | 金は宋都開封を陥落させて北宋王朝陥落 | ||
1135年 | 平壌(高麗藩の西京)で妙清の乱 僧の妙清は遷都賛成派、 遷都反対派の金富軾で争う。遷都反対派(開城文臣)の勝利で決着。 |
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1138年 | 金国 南宋国の臨安(杭州)紹興~明州(寧波)を陥落させる。 | ||
1145年 | 朝鮮史書「三国史記」が完成 | ||
1146年 | 毅宗 | ||
1157年 | 金国 燕京へ会寧から遷都 | ||
1170年 | 重臣の鄭仲夫が反乱を起こし(庚寅の乱)、毅宗を廃し明宗をたてる。実権は鄭仲夫、慶大升、崔忠献らが握る。 毅宗は廃王となり、釜山沖の巨済島に流される。 |
明宗 | |
1194年 | |||
1196年 | 崔忠献が政権を掌握(武臣一族・李氏を滅ぼす) 1219年に崔忠献は死去するが、1258年まで4代62年の長きにわたって続く |
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1197年 | 崔忠献 明宗を廃位 神宗を王位につける | 神宗 | |
1198年 | 開城、私奴の万積らの反乱 溟州(江陵)、東京(慶州)、陜州等各地で反乱 |
[編集] 1200年-1299年
年 | 高麗 | 日本及び 周辺国 | 高麗王 |
1206年 | テムジンがモンゴルを統一 | ||
1213年 | 高宗 | ||
1218年 | モンゴル帝国と同盟 | ||
1219年 |
高麗、モンゴル軍と協力して、契丹族を殲滅(江東城の勝利) |
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1225年 | 高麗に送ったモンゴルの使節が殺害される事件。(鴨緑江事件) モンゴルと断交して対立する |
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1227年 |
西夏、 蒙古に滅ぼされる。 |
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1231年 | 8月29日 蒙古(後の元)の侵入が始まる。(第1次) 11月29日 蒙古、開京に至る。王は降伏。地方では抵抗が続く。(高麗史 巻22) |
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1232年 | 崔氏は国王を連れて都を開城から江華島に移し抵抗。 達魯花赤が殺害される事件 |
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1233年 |
蒙古 金の首都開封を攻略。 |
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1234年 | 蒙古軍 第3次高麗侵入 |
金朝滅亡 | |
1235年 | 蒙古軍、再び高麗へ。(元史 2) | ||
1236年 |
蒙古軍、全羅道付近まで | ||
1238年 | 蒙古軍、東京(慶州)まで | ||
蒙古軍、第5次侵攻 | |||
1254年 |
蒙古軍、第6次侵攻 「蒙古兵に捕らえられた者20万余り、殺された者数えきれず」 |
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1258年 |
武臣の金俊ら 親蒙古を掲げ、崔氏政権を倒し、蒙古へ降伏。 | ||
1259年 | 元に服属。 高宗の子(後の元宗)元の首都 大都(北京)へ |
元宗 | |
1260年 |
世祖クビライ即位 |
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1263年 | 高麗、日本人の沿岸侵略禁圧を要請 |
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1268年 |
元との徹底抗戦を主張する武臣の林衍、金俊を暗殺、実権の掌握。元宗廃 位となるが元の力で復位 | クビラィの命を受けた高麗の使者が大宰府 蒙古、南宋への攻撃を開始 |
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1270年 | 高麗 「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われる。 蒙古 西京(平壌)に東寧府を設置 |
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1271年 | 三別抄の勢力 全羅南道全域や慶尚南道の一部を掌握する。 6月 忠烈王 クビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年) |
蒙古、国号を「元」と改める。 |
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1272年 | 忠烈王 クビライに日本侵略を提言。軍船の造船を申し出る。 | ||
1273年 | 三別抄の乱を元の力で鎮圧 | ||
1274年 | 元 日本侵略のため(元寇)行中書省をおき、高麗、戦艦大小九百艘を造船する。 | 10月文永の役 | 8月 忠烈王 |
1275年 | 耽羅国に耽羅國軍民都 達魯花赤(da-ru-qas) 總管が置かれる | ||
1276年 | 通訳とその教育のために通文館を置く | ||
1278年 | 辮髮・胡服令。 | ||
1279年 | 元 南宋を滅ぼす。 | ||
1280年 | 日本に対する遠征(元寇)を遂行する目的で征東行省(忠烈王が長官となる前期征東行省 )を創設 | ||
1281年 | 弘安の役 征東行省を解散 |
高麗の兵船、対馬を侵略する |
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1287年 |
元、高麗に征東行省を設立(後期征東行省)。高麗王を長官に任命 | ||
1289年 | 哈丹(契丹)の寇により都を江華島に移す。 | ||
1291年 | 都を開城に戻す。 契丹の侵入 |
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1297年 | クビライの娘忽都魯掲里迷失死去。元との関係が壊れる。 | ||
1298年 | 忠烈王廃位 忠宣王退位 元の王妃が趙妃を嫉み誣告(趙妃誣告事件) |
忠宣王 忠烈王 |
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