郭図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目には、一部のコンピュータや一部の閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 |
郭図(かく と、? - 205年)は、中国の後漢時代末期の政治家、武将。字は公則。豫州潁川郡の人。
目次 |
[編集] 正史の事跡
[編集] 初期の事跡
姓名 | 郭図 |
---|---|
読み・ピンイン | かくと〔Guō Tú〕 |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 205年(建安10年) |
字・別号 | 公則(字) |
本貫・出身地等 | 豫州潁川郡 |
職官 | 都督 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁紹→袁譚 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
河北の諸侯袁紹の重臣で、後にその長男袁譚にも仕える。初平2年(191年)に、荀諶、張導、高幹らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。
『三国志』魏書袁紹伝によると、興平2年(195年)に郭図は献帝の下へ使者として派遣され、冀州にもどるや、袁紹にこれを迎えることを勧めたが受け入れられなかった。しかし、同伝の注に引く『献帝伝』と『後漢書』袁紹伝によると、この進言は沮授によるもので、郭図は淳于瓊と共にむしろ献帝を迎えることに反対していたとされる。どちらが正しいかは不明である。
建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張し、袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。
[編集] 官渡の戦い
建安5年(200年)2月、官渡の戦いが始まると、郭図は淳于瓊、顔良と共に白馬に駐留する東郡太守劉延を攻撃した。しかし、曹操軍の迎撃に遭い、顔良、さらには文醜の両将を喪失するなど苦戦する。
同年10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張したが、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると主張した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃を讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた(『三国志』魏書張郃伝)。ただし、『三国志』魏書武帝紀によれば、袁紹は騎兵を烏巣に向かわせ、張郃と高覧に曹操軍の本陣を守る曹洪を攻撃させたが、張郃らは淳于瓊の敗北を聞いて降伏し、その後、袁紹軍は総崩れになったとあり、裴松之が張郃伝の注で指摘するように張郃伝と時系列に矛盾が生じる[1]。
[編集] 袁氏内紛と最期
建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴したが、郭図、辛評と不仲の審配、逢紀が、三男の袁尚を推戴して対抗し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥ると、次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。
後継者争いが激化し、曹操の河北進攻が強まって後に、審配は袁譚に信書を送り、郭図の誅殺を求めたが、袁譚は拒否した。『三国志』魏書袁紹伝注に引く『漢晋春秋』によると、袁譚は審配の信書を読んで涙したが、実質的に影響力のあった郭図に逆うことができなかったとされる。その後、袁譚と郭図は、一度は勢力を盛り返すものの、それが原因で再び対立した曹操の軍に追い詰められ、建安10年(205年)春、南皮で敗死した。
審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたこと、また、郭図の官渡の戦いでの所業が原因で、一般的には、袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかった以上、郭図が長男袁譚を推したこと自体には理があり、しかも『後漢書』袁紹伝によれば、衆目は年長の袁譚支持であった。それにもかかわらず審配らは、袁紹の生前の寵愛を理由に、三男・袁尚を推し、さらに袁紹の遺命まで偽造したという。少なくとも、袁氏内紛に関しては、郭図よりも審配の方が罪が重いと言わざると得ない。
もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、依然として問題行動は多かった。青州から駆けつけた袁譚配下の王脩は、侫臣を斬って袁尚と和解するように袁譚に説いているが、おそらくこの「侫臣」とは郭図、辛評のことであろう。
[編集] 物語中の郭図
『三国演義』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させた戦犯のように扱われている。
官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜を討ち取られた際には、劉備を処刑するよう審配と共に袁紹に進言したが、劉備は巧言によりその危機を逃れた。劉備が荊州の劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられなかった。結局、劉備は戻ってこなかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも孫策と同盟して曹操を討つよう進言し、これは受け入れられる。
その後の、官渡の戦いや袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは、楽進の弓矢に射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。
[編集] 注
- ^ このほか、『三国志』魏書袁紹伝は、武帝紀と同様、張郃と高覧が降伏してから袁紹軍が総崩れになったとしており、『後漢書』袁紹伝も、武帝紀と同様、張郃は曹操軍の本陣を攻撃したものの失敗し、淳于瓊の敗北を聞いて降伏したとしている。また、『三国志』魏書荀攸伝では、張郃らの降伏を怪しむ曹洪に、荀攸は「張郃は自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです。あなたはどうして疑うのです。」と言っている。このように張郃降伏に関する張郃伝と、武帝紀などとの違いは大きい。