趙忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙忠(ちょうちゅう、? - 189年)は中国後漢の宦官。十常侍の一人で大長秋。安平の人。従兄弟に趙苞。霊帝時代に権勢を振るい霊帝に「我が母」とまで言われ寵愛された。
[編集] 略歴
桓帝時代、宦官の単超たちが梁冀誅殺の功績で列侯に封ぜられると、それに伴い趙忠も都郷侯になった。霊帝時代になると張譲と共に中常侍になり列侯に封ぜられ、曹節が死ぬと大長秋となった。趙忠は霊帝の寵愛が深い事をいいことに他の宦官たちと組んで私腹を肥やした。
184年、黄巾の乱が起こる。郎中・張鈞は、乱の原因は十常侍たちが私腹を肥やしていることにあるとして、趙忠達を斬るべきだと弾劾するが、趙忠達が官を辞し獄に出頭し家財を売り払い軍費に充てると、霊帝は趙忠達を官に復帰させ逆に張鈞を逮捕してしまった。また、同じ宦官の呂強が霊帝に左右の貪濁なる者を誅すべきと上奏すると、趙忠は夏惲と共に呂強を中傷し自殺に追い込んだ。皇甫嵩に邸宅が規定に反して豪華なのを上奏され没収されたのを恨み、皇甫嵩が反乱の平定の任に就くと同じく皇甫嵩に恨みのあった張譲と共に霊帝に讒言した。
189年、霊帝が死ぬと趙忠は蹇碩に外戚の何進の誅殺を相談されるが、逆に趙忠たちはそのことを漏らし何進側について蹇碩を見捨てたが、何進が袁紹らと宦官誅滅を画策しているのを知ると、趙忠たちは何進を誘き出して殺してしまう。そのことを袁紹たちが知って宮中に突入すると、趙忠は他の宦官たちと共に殺された。