第七次対仏大同盟
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第七次対仏大同盟(だいななじたいふつだいどうめい, Seventh Coalition, 1815年3月25日 - )は、エルバ島から舞い戻り、フランス皇帝に復帰したナポレオン・ボナパルトを打倒するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟。百日天下の後、敗北したナポレオンはセントヘレナ島へ流罪となり、ナポレオン戦争は終結した。
[編集] 同盟
1814年、第六次対仏大同盟諸国との戦いに敗れたナポレオンはフランス皇帝から退位し、5月4日にエルバ島へ追放された。しかし彼は復帰のための計画を練っていた。
ブルボン朝の王政復古の政治がフランス国民の反感を買い、同盟諸国もウィーン会議で対立している情勢を見て、1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出しカンヌ近郊に上陸した。フランス王となっていたルイ18世は、ナポレオンが舞い戻ったとの一報に驚愕し、ネイに軍を与えて捕縛に派遣したが、ネイはナポレオン側へ寝返り、合流してパリへ進撃した。ルイ18世は逃亡し、ナポレオンは3月20日にパリに入城、再び帝位に就き、直ちに軍の動員に取り掛かった。
一方、ナポレオンの復活に驚愕した同盟諸国では、3月13日にウィーン会議でナポレオン復帰の無効を決定し、3月25日に第七次対仏大同盟を結成して、ナポレオンを打倒するための軍の集結を開始した。第七次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。
[編集] 1815年フランス戦役
ナポレオンは、諸国に皇帝復位を認めさせるためには、同盟軍を撃破しなくてはならなかった。この時、ウェリントン公の率いるイギリス・オランダ連合軍と、ブリュッヘルの率いるプロイセン軍はベルギー方面にあり、オーストリア軍はライン方面と北イタリアに展開していた。ナポレオンは同盟軍が合流する前に各個撃破すべく、フランス軍主力を率いてベルギーへ向かった。
6月15日、フランス軍はリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかしその側面を衝く予定であったネイ軍団が、6月16日のカトル・ブラの戦いでイギリス軍によって足止めされたため、プロイセン軍の撃滅には失敗した。プロイセン軍ではブリュッヘルが重傷を負い、代わって参謀長グナイゼナウが指揮をとった。ナポレオンはグルーシーに一軍を与えてプロイセン軍の追撃に派遣し、自身はウェリントン公の率いるイギリス・オランダ連合軍と決戦するためにワーテルローへ向かった。
6月18日、フランス軍7万2,000とイギリス・オランダ連合軍6万8,000がワーテルローの戦いで激突した。ネイの騎兵による再三の突撃に対してイギリス軍の方陣は持ちこたえた。イギリス軍にとどめをさすべくナポレオンが老親衛隊の投入を命じた直後、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着し、フランス軍の側面へ猛攻をかけた。フランス軍は潰走し、イギリス・プロイセン軍の追撃によって多くが降伏に追い込まれた。
[編集] 戦後処理
6月22日、ナポレオンは再び退位を余儀なくされ、セントヘレナ島へ流罪となった。復帰からわずか100日足らずで敗北へ追い込まれたことから、この期間をナポレオンの百日天下という。
7月8日、ルイ18世がフランス国王に復位した。フランス革命以降断続的に20年以上にわたって続いた戦乱は、11月20日の第二次パリ条約の締結をもって正式に終結した。