生の哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生の哲学(せいのてつがく、独:Lebensphilosophie、仏:philosophie de la vie、 英:philosophy of life)は、デカルト的心身二元論的な知性や理性に限定された我々の存在を超克、それより先んじて非合理的な我々の生そのものへとアプローチしていく精神史の思潮のひとつ。反形而上学的要素が強い。19世紀後半~20世紀前半に盛んになった。
[編集] 起源
Lebensphilosophieは、近代以前では、「人生哲学」と呼ばれるものであり、「どのようにして、良く生きるか」という古代時代からしばしば論じられてきたテーマのひとつを指してきた。この語に特別な意味をあたえた一人が、フリードリヒ・シュレーゲルであり、「生の哲学に関する講義」(1828年)においてである。その中で生を「生物的な要素」としてとらえ、「否定的で悪の原理」として示した。同時代のドイツ大詩人シラーも生の哲学について言及するなど、1800年前後から次第に関心がもたれ始めた。
このように、19世紀の前半までは生そのものは、偶然的で否定的な要素として捉えられてきた。当時の哲学においては、我々の中にある「生」というものを是認せず、あくまで哲学外の事として扱われていた。カントやドイツ観念論を初めとする当時の「本流」の哲学は認識論、実在論などをあくまで理性を中心に見据えて理論を展開しており、基本的に生そのものは構想から外れているといえる。彼らが捉えたのは、絶対的存在(あるいは神)の体現としての固定的な生である。
この生は、いわゆる「生の哲学」で展開される動的な生とは性質の違うものであると考えられる。この時代の生の哲学の源流はむしろ当時の哲学の本流とみなされていなかった反啓蒙・反カント主義者たち(ハーマンやヤコービなど)であり、彼らの思想は理性よりも人間本来のもっている信仰や感情の能力の優位を唱え、生そのものを直接的に捉えようとするきっかけを作るものであった。その後、19世紀の東洋思想(インド・中国)のヨーロッパへの移入(先に述べたシュレーゲルがインド思想をドイツに持ち込んだ初期の人物であることを考えても、彼が生の哲学に関心を持ったのは不思議ではない)あるいはショーペンハウアー、ニーチェなどを通して生の哲学がひとつの骨のある思想の一潮流となってきた。
また、生の哲学においてラマルク、ダーウィンによって「進化論」が形成された。進化論というこの生物学的な理論が、哲学を我々人間に内在している非合理で、ダイナミックで時として惨い姿を見せる「生」そのものへと動かしたのである。
[編集] 「生の哲学」の動向
哲学のひとつの立場ともいうが、当初この動向は、ニーチェ、キルケゴールなどの文学的な体裁を借りた思想的エッセイとして現れ、彼らは生前中はほとんど正当な哲学者としてはみなされていなかった。日本の和辻哲郎などがそれを哲学として論じたりしているのは、むしろ珍しい例である。こうした動向は、ヴィルヘルム・ディルタイの『体験と詩作』やゲオルグ・ジンメルの数多くの哲学的エッセイなどにその影響を残し、ニーチェ、キルケゴールの死後40年くらいを経て、マルティン・ハイデッガー、カール・ヤスパースによって評価されて初めて、そうした哲学の立場があったものとして広く承認を受けるに至る。これを受けて、生への思想的アプローチは20世紀のフランス哲学で主に語られ、ポストモダン主義などと相まって、現代フランス哲学ではこの流れを汲む者も少なくない。また、実存主義やプラグマティズムなど20世紀の思想に与えた影響は少なくない。ただ、例えばドイツ観念論のような哲学の流派のかたちはなしていない。(ある思想家の哲学がどのようなジャンル・性質・位置なものかは後世の研究家が決めることが多い、いうのもあるが)
哲学においては生の哲学だけ掻い摘んで叙述するということはできない。というのも、やはり論理・宗教・自然などの各種問題をも自身の哲学の体系に取り入れ、その中のひとつとして「生」という問題がはじめて語ることができる性質のものだからである。仮に生の哲学だけして掻い摘んで叙述しているのであれば、その人物は哲学者とは呼ばれず、むしろエッセイストなどと呼ばれるべきだろう。
『生の哲学』というタイトルの本は、ディルタイやジンメルのほか、ハインリヒ・リッケルトが執筆している。(ただし、ジンメルの原タイトルはLebensanschauungである。またディルタイの著作は、ヘルマン・ノールが編纂した講義録である。) また、オットー・フリードリッヒ・ボルノウの『生の哲学』(玉川大学出版部)もある。ただしボルノウは哲学というよりは、教育哲学で活躍したので、教育学よりの批評になっている。
ただし、このようなダイナミックな生そのものへの動かす動向は、一方で合理的な「学としての哲学」を拒むものであり、この生の哲学に対抗するものとしては、新カント派や論理実証主義であろう。また学と生の両者の対立を克服しようしたフッサールなどもいる。
生の哲学と呼ばれる主な哲学者として、アルトゥル・ショーペンハウアー、フリードリヒ・ニーチェ、アンリ・ベルクソン、ゲオルク・ジンメル、ヴィルヘルム・ディルタイ、オルテガ・イ・ガセトなどが挙げられる。