王忠
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王忠(おう ちゅう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。雍州扶風郡の人。曹操配下の武将。
[編集] 正史の事跡
姓名 | 王忠 |
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読み・ピンイン | おうちゅう〔Wáng Zhòng〕 |
時代 | 後漢 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 雍州扶風郡 |
職官 | 中郎将、揚武将軍、軽車将軍 (着任順は不明)〔曹操〕 |
爵位・号等 | 都亭侯 |
陣営・所属等 | 曹操 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
若い頃は亭長を務めていた。三輔が混乱すると、王忠は飢え苦しんで、人肉を食した。その後、衆を率いて武関に向かったが、荊州に割拠していた婁圭に帰属することを望まず、これを攻撃して撃ち破った。そして、千人余りの軍を率いて、曹操に帰属した。
王忠は曹操の征討に付き従い、中郎将、揚武将軍、軽車将軍を歴任し(着任順は不明)、都亭侯に封じられている。建安4年(199年)、徐州刺史車胄を殺害して叛逆した劉備を、曹操の命により劉岱と共に討伐したが、降すことはできなかった。建安18年(213年)、魏公への任命を受諾するよう曹操に促す文書に、王忠も名を連ねている。
五官中郎将だった曹丕は、曹操、王忠らと共に外出した際に、芸人に命じて墓場から髑髏を取ってこさせ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。
[編集] 物語中の事跡
『三国演義』でも史実と同様に、劉岱と共に劉備討伐に向かったが、曹操の意図は、袁紹を相手にしている間の時間稼ぎ程度であったとしている。王忠は、関羽との戦いに敗れて捕えられた。劉備からは礼遇され、同じく捕えられた劉岱と共に、曹操への斡旋を依頼される。帰還後、王忠と劉岱は、曹操に敗戦の咎を問われて処刑されそうになったが、孔融の取り成しで助命された。
なお史実では、王忠らは、あくまで勝利を得られなかった(原文「不克」)とあるのみで、劉備に敗北して捕虜とされたわけではない。