爆竹
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爆竹(ばくちく)とは花火の一種。
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[編集] 概要
爆竹は竹筒や紙筒に火薬を詰めて導火線に点火、爆発させ、大きな音を鳴らす花火である。他の花火とは異なり爆発音をを最大の目的とし、見た目の美しい火花を噴出することはない。日中には破裂音とその破片が飛び散る様を楽しみ、夜間では連続して破裂した際の音と閃光を楽しむ。
日本で玩具として用いられているものは長さ2~2.5cm・太さ3~4mmほどで2~4cm程の導火線が付いた小さくカラフルな着色が成された紙筒が、約20本前後を板状に並べられて導火線を束にしたものが箱詰め・袋詰されて売られている。
中国を中止にイベントやセレモニーで用いる大型の爆竹は、大型の爆竹を数十本から数百本、時には櫛形に連結し、導火線の端にある紙紐の輪を竿や紐を使って束のまま吊るし、導火線に点火する事で、落下しながら連続的に破裂音を立てて燃焼する。燃焼中は周囲に破裂した紙筒の破片が大きく散乱するなど爆発力が極めて強いものもある。
[編集] 中国における爆竹
爆竹は中国での魔除けに由来する。漢代の『神異経・西荒経』によれば、西方の山奥に人間の姿をした一本足の怪物山魈が棲んでおり、山魈に出会った人間は高熱を発し苦しみながら死んで行くとされていた。伝承では春節の際に山魈は山から人里に下りてくるため、人々は春節を非常に恐れていたとされる。
ある日とある農民が山で竹を伐採し家に帰ろうとした際、肌寒く感じた農民は竹に火を付けて暖を取っていた時に山魈と遭遇した。驚いた農民は火の付いた竹を捨てて逃げ出したが、山魈も火のついた竹がパチパチと音を立てていることに驚き山に逃げ戻った。 山魈の弱点を知った人々は毎年正月になると各家庭で竹を燃やし、それに恐れをなした山魈は再び人里に現れ人々を苦しめることは無くなったとされる。
南北朝時代では竹を燃やす原始的な爆竹は一般的となっており、『荊楚歳時記』では上記の故事が紹介されている。[1]
火薬が発明されると火薬を使用した爆竹も作られるが、爆竹の用語はその後も使用されていた。唐初、某地方で毎年のように疫病が発生し、李田という人物が火薬を竹筒に詰めて爆発させ邪気を払ったとされる。それまでの爆竹より大きな音の出る爆竹は人々に受け入れられ、宋代になると竹筒の代わりに紙筒を用いた現代と同様の爆竹が作成されるようになった。また宋代には爆竹を串状に連ねた編炮が製作され、爆竹の音が長時間持続するさまが人が鞭を打つ音に似ていることから鞭炮とも称されるようになり、現代中国語にもこの言葉が継承されている。
明から清代にかけて爆竹は更なる発達を見せ、『紅楼夢』などの小説にも爆竹に関する記載が見られ数多くの種類があったことが推察される。またこの時期になると山魈を追い払うという本来の意味以外に、神を迎える(迎神)として使用されることが多くなり、中国では春節以外に元宵節や端午節、中秋節といった他の節日や、結婚や誕生日、商店の新規開店などの祝い事に欠かせない道具として用いられている。[2]
現在中国では各種爆竹が生産され、地方都市を中心に販売されている。小型なものとしては直径3mm、長さ1cm程度の商品[3]から、大型のものとしては直径1cm、長さ5cmの商品などが販売されている。大型爆竹に関してはその威力が強いため取扱上の問題から毎年負傷者や死者の発生が報道されておる、また北京市や深圳市などの大都市ではその使用に一定の規制が行われている。
[編集] 日本における爆竹
中国から流入した爆竹の文化は日本でも定着し、玩具としての他にも長崎県内各地でお盆期間に行われる精霊流しや、全国各地の中華街での春節祭等のイベントに用いられる。
しかし暴走族が深夜に爆竹を使用し迷惑行為に及ぶ事もあり、度々有害玩具として規制すべきかどうか議論が行われている。しかし普遍的に楽しまれている事から、大量購入を行わない限りは問題とされない傾向が一般的である。
[編集] 熊除けとしての利用
山林が荒廃した際などに、ツキノワグマやヒグマが人里周辺に出没するケースも度々発生するが、これら人里周辺に下りてきた熊を山奥に戻すために、人里周辺で定期的に爆竹を鳴らすなどの方策をとる自治体も見られる。しかし目の前にいる熊に爆竹を投げても、パニックを誘発させる危険性がしてきされたり、効果が薄いというハイカーの証言も存在しその効果については不透明な部分があるとも指摘されている。