桓範
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桓範(かんはん、199年? - 249年)は、三国時代の魏の政治家。字は元則。
沛国の人。智謀に優れ、曹爽が司馬懿を排斥して魏の政権を掌握すると、大司農に任じられ、その参謀して活躍した。
249年、曹爽が皇帝である斉王曹芳に同行して、先帝曹叡の陵墓である高平陵を参拝しようとした時、桓範は首都洛陽を空けることの危険を説いてその同行を諫めたが、聞き入れられなかった。果たして曹爽が都を留守にした隙をついて、司馬懿が曹爽打倒のクーデターを決行し、洛陽を占拠してしまった。桓範は司馬懿の挙兵を聞くと、天子の詔勅であると偽って封鎖されていた門を開けさせ、洛陽から脱出することに成功した。だが司馬懿は「曹爽は内心では桓範を疎んじているし智恵も足りない。『駑馬 短豆を恋う(平凡な人は、目先の利益にありつこうとする)』というもので、絶対その献策を取り上げはすまい」といったという(『晋書』宣帝紀による。『三国志』曹爽伝で裴松之が引用する干宝の『晋書(晋紀?)』では、「知恵袋を逃がした」といって慌てた司馬懿に、蒋済が「駑馬 棧豆を恋う」と言ったとされる)。
曹爽のもとにたどり着いた桓範は、彼に対して許昌で帝を擁して再起を図るよう献策したが、曹爽は司馬懿から解任のみを条件に放免すると言われると、戦意をなくし桓範の進言を聞き捨てた。曹爽兄弟のこの有様を見た桓範は絶望のあまり「曹子丹(曹爽の父、曹真)は優れた方だったが、生まれたお前ら兄弟は子牛同然だ! お前たちのせいで族滅の憂き目にあうとは思わんかったわ!」と泣き叫んだという。
曹爽とその一族の処刑に伴い、連座として桓範とその一族も皆殺しとされた。
彼は文学者としても優れており、王象らと共に『皇覧』を編集した。『隋書』経籍志には『世要論』『桓範集』などの著作があったとされる。