林清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林 清(りん せい、Lin Quing、? - 1813年)。劉金刀、劉安国、劉林とも書く。清の嘉慶年間の八卦教(天理教)の乱の指導者。
直隷省大興県出身。農民の出身で後に薬店の店員や役所の使用人となった。1806年から白蓮教の一派である八卦教を信仰するようになり、やがて地域のリーダーとなった。未来を予知することができると称し、多くの農民・商人・下級役人を引きつけていった。入信者からは財物を取って貧民に分け与えていた。1812年、別のリーダーである李文成と会見して翌年の蜂起を約束したが、李文成は蜂起前に捕らえられた。
1813年9月14日、嘉慶帝が熱河の避暑山荘に赴いたのを機に、内応した宦官の手引きによって、2百人の信徒とともに商人に変装して北京に入った。15日、「大明天順」「順天保明」などの旗を掲げて紫禁城を攻撃した。紫禁城では皇子旻寧(後の道光帝)が軍を率いて抗戦した。2日間の戦闘の後、信者は全滅して、林清は処刑された。