朱友恭
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朱友恭(しゅ ゆうきょう、生年不詳 - 905年)は後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の仮子。本姓は李で、名は彦威。
[編集] 生涯
仮父から左竜武都統に任命された。ところがこの朱友恭は彼は軍事的才能に長けていたというが人格的に問題があったという。同時に彼は朱全忠の長男の彬王朱友裕と相性が悪かったといわれる。892年、石仏山で敵対した朱瑾を撃破した有力太子候補の朱友裕に対して、右竜武都統の氏叔琮と共に「彬王は朱瑾と内通した」と朱全忠に讒言した。これを聞いた朱全忠は信頼する長男がそんなことをするはずがないと信じなかったが、念のために兵権を召し取った。引き続き、朱友恭らは朱友裕を処刑すべく企んだが、これは張皇后(朱友貞の生母)が手差しを伸べて継子の彬王を懸命に助命したために、挫折した。以降、朱全忠は愛する長男を死に陥れようとした仮子の朱友恭を徐々に疎み始めたのである。
904年、朱全忠は唐の天子の昭宗の監視をその朱友恭と氏叔琮に任せたのである。やがて朱全忠は腹心の枢密使の蒋玄暉と参謀の李振を派遣して、朱友恭らと昭宗の暗殺の計画を練った。その結果、刺客の史太が直接、その天子の昭宗を暗殺したのである。だが、朱全忠はかつて今は亡き長男の朱友裕を蹴ってまで太子の座を狙った朱友恭をいつかは破滅させようと機会を伺っていたのである。その罪を着せるために天子昭宗の監視役を直接、朱友恭と氏叔琮に命じたのである。昭宗惨殺の報を聞いた朱全忠は昭宗の棺の前で「陛下を害したのは仮子の友恭めの仕業でございまする。わたしが責任を取って友恭と氏叔琮を誅いたしまする」と慟哭した。同時に長安で朱友恭の軍勢が略奪行為をしたために、ついに朱全忠は朱友恭と氏叔琮を逮捕して、投獄した。やがて友恭は仮子を解かれて、元の李彦威に戻り、崖州(海南島)の司戸として左遷すると発表された。やがて、友恭(李彦威)は長安で処刑されたのである。刑死する前の彼の最期の言葉は「あの時に朱全忠・友裕父子を殺害して俺が後梁を乗っ取るべきだったんだ。だから、あの老い耄れは俺を怨んで見捨てて、天下統一の捨て駒にされたんだ!朱家も永続はせんだろう」と絶叫したと言う。同時に氏叔琮も白州(広西省の博白)の司戸に左遷と発表され、友恭と共に処刑されたという。