曹洪
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曹洪(そう こう 拼音:Cao Hong ? - 232年)は、中国の三国時代、魏の武将。字は子廉。
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[編集] 略伝・人物
[編集] 生涯
曹操の一族(但し、血は繋がってはいない)。曹震、曹馥の父。後漢の衛将軍・曹瑜、尚書令・曹鼎らと、さらに宦官・曹騰の甥に当たる[1]。父の名は不詳。
若いころ、伯父の曹鼎が尚書令だった縁故で、蘄春の県長に推挙された[2]。のちに曹操の挙兵に従って、そのまま同族の曹仁らと共に武将として仕えた。
初平元年(190年)の董卓討伐戦の時、曹操は徐栄に大敗し敵軍に追撃された。この時、曹洪は白鵠という名馬に乗っていたが、馬を失った曹操に馬を譲ろうとした。曹操は最初は辞退したが、曹洪は「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず!」と直言して曹操に馬をゆずり、自分は徒歩で曹操に付き従った。やがて汴水に達すると曹洪は岸辺を巡り歩き船を探し出し、曹操と共に船に乗って汴水を渡った(『三国志演義』では曹洪が曹操を担いで汴水を渡っている)。
この敗戦後、曹操は軍の再建のために揚州に赴く。この時曹洪は、親交のある揚州刺史陳温の協力を得て盧江、丹楊で兵を募り、数千の兵を率いて曹操と合流している[3]。
呂布が反乱を起こした時は本軍に先行し東平・范を占拠し本軍に食料を補給した。曹操が呂布を敗走させた後は、十県以上を攻め落とした。202年の官渡の戦いでは兵糧などの後方補給などで曹操の覇業を常に補佐し、曹操が烏巣に攻撃した後にその留守を懸命に守り、当時袁紹の武将だった張郃、高覧らの攻撃を防御した。
張飛、馬超、呉蘭、雷銅らが下弁に攻め込んだが、218年、陰平のチベット系氐族の酋長の強端と結んで、侵攻した劉備軍の将の呉蘭、雷銅を襲撃した。間もなく強端、親族の曹休、辛毗と共に呉蘭、雷銅を討ち取り、張飛、馬超は敗走した。
曹洪は大宴会を催し、薄着の歌姫に舞楽を行わせた。しかし楊阜は大勢の席上で女性の肉体をむきだしにするのは不道徳だとして、曹洪を責めた。すると、曹洪はすぐにこの舞楽を止めさせた。
曹洪は利殖・蓄財を大いに好み、曹操が臣下達の資産調査を命じた際、曹洪の資産が自分と同等であるという報告を受けた際に曹操は「私は子廉のように財産は持っていない。だが、彼はもっと財産を持っているはずだ」と言い、改めて調べさせたところ曹操の言った通りだったという。曹操は曹洪のこのような性格を熟知しており、財貨と女色を好む面を前漢の高祖(劉邦)に比して、曹洪とその参謀であった辛毗、さらに族子の曹休に向かって慎重に警告している。
曹丕が即位すると衛将軍となった。その後、驃騎将軍に昇進し野王侯に封じられた。
以前に曹丕の借金申し込みを拒絶した経緯から曹丕に恨まれていて、曹操の死後、自身の食客の罪に連座する形で逮捕された。卞太后(曹丕の生母)の取りなしによって死罪は免れたが、所領と爵位を削られた。226年に曹丕が40歳の若さで逝去し太子の曹叡が即位すると、後将軍に任命され、改めて楽城侯に封じられて、その後再び驃騎将軍に昇進した。
[編集] 演義での曹洪
演義では曹仁と共に曹操の挙兵から付き従う武将として登場する。目立った活躍こそ少ないが曹操軍の主な戦の大半にその名前が登場する。やや血気にはやる性格として描かれ、馬超征討戦では先鋒として潼関守備の任を与えられ曹操より打って出ることを禁じられるが、馬超軍の兵士に罵倒されたことを怒り曹操の命令を破り打って出てしまい潼関を馬超軍に奪われる。そのことで曹操の怒りを買うが、しばらくして馬超に追い詰められた曹操を救ったために潼関敗北の罪は相殺された。曹操の死後は目立った活躍はなく、いつの間にか登場しなくなる。