晁錯
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晁錯(ちょうそ、? - 紀元前154年)は中国前漢の政治家。諸侯王の勢力を削る政策を進めたが、反発を受けて呉楚七国の乱を招き、自身は反乱鎮圧のためと称して殺された。本来の表記は鼂錯だが、晁錯と略字で表記されることが多い。以下晁錯で統一する。
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[編集] 生涯
[編集] 文帝期
潁川の人。若い頃に張恢から刑名学(法家)を学んだ。
文帝の治世に、文帝の命により秦の時代の焚書坑儒により廃れてしまった尚書(書経)を当時90余歳の伏生のもとに派遣されて学んだ。そこから文帝より信任を得て政治に参加し始め、匈奴対策などを立案していた。また同じく太子の劉啓の教育係にもなった。
この時期の晁錯の政策として有名なものが納粟受爵制度である。当時は商業が活発となって貧富の差が激しくなり、農民の没落が目立つようになっていた。その原因の一つが納税が全て銭納であったことで、これにより納税期になると農民が一斉に農作物を銭に替えるため非常な買い手市場となり、商人によって安く買い叩かれがちだったことがある。晁錯はこの問題の解決策として、穀物をある一定以上の量を納めた者に爵位を与えるという制度を提案した。この納粟受爵制度により商人が爵位を求めて穀物の買い付けに走り、農民たちの売り手市場となって農民の手元に多くの金銭が入るようになった。
[編集] 景帝期
景帝が即位すると更に深く信任されて内史(首都長官)となった。
景帝の晁錯への信頼は非常に厚く、景帝は最高職であるはずの丞相・申屠嘉の話を聞かず、遥かに低い役職である内史の晁錯が何か奏上するときは申屠嘉たちは全て下がり、晁錯と景帝が二人きりで話すほどであった。 これに腹を立てた申屠嘉はどうにかして晁錯を排除しようと考え、その口実を探しだした。それは晁錯が役所の建物の南の壁に穴を空けていたのだが、これが劉邦の父の劉太公の廟の垣になっていた。高祖の父の廟を壊す、これは不敬にあたると考えてこれを景帝に上奏して晁錯を殺そうと考えた。しかし晁錯はこの申屠嘉の動きを察知して景帝にいち早く伝えて、不敬に当たらないとのお墨付きを貰っていた。その後、申屠嘉が奏上してきたが、景帝はもう許してあるからとしてこの言葉を退けた。讒言に失敗した申屠嘉は「先にあの小僧を殺してから奏上すれば良かった!」と悔やみ、まもなく死去した。
政敵を排除した晁錯は、景帝の信頼はますます厚くなり、ついには御史大夫(副丞相)となった。しかし彼の性格は傲岸であり、申屠嘉以外にも外戚の竇嬰など多数の敵を作っていた。その中でも郎中から斉や呉の丞相を勤めていた袁盎は晁錯を嫌う事が激しく、袁盎がやってくると晁錯は席を立ち、晁錯がやってくると袁盎は席を立つと言うほどだった。晁錯は御史大夫になると袁盎を弾劾し、袁盎は罪を得て平民に落とされた。
[編集] 呉楚七国の乱
前漢は全国を直轄領にする地方と諸侯王を封じて治めさせる地方とに分けて治めていた(郡国制)。しかし文帝の元で漢全体の国力が増大すると同時に諸侯国の国力も増大し、中央の統制を外れるようになってきた。文帝時代の賈誼はこのことを指摘して対策を求めていたが、無理をしないと言う文帝の方策により取り上げられないままであった。景帝は準備が整ったと感じ、晁錯を使って諸侯王対策に乗り出した。
当時の諸侯王のうちで最も強い勢力を持っていたのが、呉王の劉濞であった。領内に塩と鉄の産地を抱える呉では独自の貨幣鋳造も行われており、民衆に税をかける必要が無いほどに豊かであった。また劉濞自身もかつて劉邦に従って英布討伐で戦功を挙げた経験を持っており、皇族の長老として君臨していた。当時の皇族たちは年一回、首都である長安を訪問する事が義務付けられていたが、劉濞の太子劉賢が景帝との口論の末に殺されたことから遺恨を持っており、この義務を怠るようになった。
この大勢力には晁錯もすぐには手をつけることが出来ず、まず二番手以下の大国である楚・趙などの領地を口実を設けては削り、その権力を徐々に奪っていった。こうなると諸侯王側も当然警戒し、反発の度合いを深めていく。そして遂に劉濞の元にも会稽・予章の両郡を削るとの通告が来たが、この地方は塩の産地であって呉にとって欠くべからざる場所であった。これを契機として劉濞は反乱を決行した。
[編集] 不名誉の死
反乱軍は晁錯のことを「君側の奸」とし、これを倒して朝廷を清めるとの名目を立てていた。君側の奸とは君主の側で君主を思うままに操り、悪政を行わせる奸臣と言う意味であり、この時に限らず反乱軍が直接皇帝を非難したくない時に何度と無く使われる論法であり、名目以上の意味は無かった。しかしこれを袁盎に付け込まれる事になる。
袁盎は景帝に直接面会し、反乱軍を抑える策があると言い、晁錯を含めた朝臣全てを下がらせてから奏上した。それまでは自分が行っていた事を自分にされた晁錯は激しく悔しがった。袁盎の言う策とは反乱軍が君側の奸と称している晁錯を殺せば反乱軍の名目が無くなると言うものである。景帝もそれほど上手くいくと思ったわけではないが、一つの方策ではあると考えてそれを許可した。
「刑不上大夫(刑は大夫に上らず)」(『礼記』)と言い、当時は士大夫階級の者には刑罰は適用されないのが普通であった。もちろん無制限に悪事が認められていたわけではなく、もし刑に相当する事を犯した場合には「役所へ出頭せよ」と言う命令が来て、それを受け取った者は自らを裁く、すなわち自殺しなければならないという暗黙の了解があった。士大夫には刑場で殺されるような不名誉なことは科せられないということである。しかし晁錯が処刑されるときにはこれが適用されず、首都長安の中尉陳嘉に騙されて市場に引き出され、腰斬により処刑された。その一族も皆殺しにされた。
この処刑より数ヶ月前のこと。晁錯の父親は削藩に執念している晁錯を諌めた。すると晁錯は、「削藩しなければ皇帝が尊敬を得られず、宗廟も不安となる(不如此,天子不尊,宗廟不安)。」と答えた。父親はこれに対し、「このままだと劉家は安全になるとはいえ、晁家は滅ぶだろう。私は去るので君の好きのようにしろ(劉氏安矣,而晁氏危矣、吾去公归矣)。」と言って毒を飲んで自殺した(遂飲薬死)。結局は父親の指摘通りになったのであった。
[編集] 評価
呉楚七国の乱は周亜夫の活躍などにより3ヶ月で鎮圧され、その後は晁錯が志向したように諸侯王の権力は大幅に削られていった。
晁錯はその傲岸さから周りとの軋轢を生み、自らは死に至った。しかし抑商政策・諸侯王対策などの政策はそれ以降の漢でも踏襲された政策であり、その行動は全て景帝の承認したものであって、晁錯を切り捨てた景帝は非情と言わざるを得ない。
一方で、宮廷の権力が絶対化されたことは、宦官や外戚が宮廷を掌握した際にこれを抑える勢力がいなくなったことを意味する。したがって、
- 皇帝や実権者の個性に大きく振り回される政治
- 外戚と宦官の専横
- 抑商政策による経済の衰退に起因する財政悪化
- 密告社会化による法への不信と、理不尽にも罪に落とされた者たちによる匪賊の形成
といった前漢の衰退原因は晁錯により作られたと見ることもできる。
なお、晁錯を死に至らしめた袁盎ものちに、梁王・劉武が帝位を継ぐ事を景帝に強く諫言して止めさせたため、劉武の恨みを受けて暗殺された。『史記』では袁盎と晁錯を同じ巻に収めており、『漢書』でもそれを踏襲している。
[編集] 朝令暮改
「朝令暮改」と言う熟語は、晁錯が文帝に出した奏上文の「勤苦如此、尚復被水旱之災、急政暴賦、賦斂不時、朝令而暮改」(『漢書』食貨志)に由来する。