山名義方
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山名 義方(やまな よしかた、明和2年3月2日(1765年4月21日) - 天保4年12月7日(1834年1月16日))は、江戸時代の交代寄合。但馬国村岡領主。
[編集] 来歴
山名義徳の子。初名、豊章。通称、小太郎。官位は、従五位上中務少輔 。兄弟に小笠原長世室(のちに離縁し小堀政共室)松田貞丈室(死別後、最上義溥室)、山名義矩(山名豊翔養子)、柳生久知(柳生久通養子)、山名義丈、山名義峯(土屋匡直の養子として土屋徳直と名乗ったが後に帰家)。室は細川興晴の娘。子女は、某(弥太郎、小太郎)、整(山名義蕃室)、某(銀次郎)、政(吉良義発室)、辰(山名義栄室)、充(山名問一室)。
寛政6年(1794年)家督を継ぐ。文化3年(1806年)陣屋を尾白山の中腹に陣屋政庁を移転し、大手門、中門、長屋、鎮守社、煙硝櫓、練兵場などを設け、家格相応の体裁を整えた。男子が早世している為、越前国鯖江藩主間部詮茂の四男間部詮量を娘の整の婿養子とし、義蕃(よしあきら)と名乗らせ、文政4年(1821年)に家督を譲る。墓所は兵庫県香美町村岡区村岡の坪谷御廟。法名、慈光院殿心静覚峯大居士。