呼廚泉
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呼廚泉(こちゅうせん、匈奴語でフチウツアン 生没年不詳)は、中国後漢代から三国時代にかけての匈奴の単于。南匈奴の単于羌渠の子、於夫羅の弟。
195年に兄の単于於夫羅が死んだ後、単于となる。於夫羅が単于であった時代に匈奴勢力として曹操と戦って大敗し、曹操勢力に帰順していると見られるが、202年には平陽で曹操に対して反乱を起こしている。鍾繇の軍に敗れ、あらためて曹操の下に投降した。 216年7月、入朝し、官位を授けられる。呼廚泉自身は鄴に留め置かれ、匈奴の故地は右賢王去卑がまとめることとなった。
呼廚泉の子孫で単于を継承した人名の記述がなく、魏の支配下で匈奴の勢力は単于を名乗れるほどには振るわなくなったと見られる。
『三国志演義』では異民族(匈奴)が天子を救ったと言う下りが気にくわないのか一切登場してこない。