司馬亮
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司馬亮(しば りょう)は、
司馬亮(しば りょう、? - 291年)は、西晋の皇族。字は子翼。司馬懿の第3子(或いは第4子とも)。生母は伏貴妃で、司馬伷の同母兄。また、司馬師・司馬昭の異母弟、司馬幹の異母兄に当たる。諡号は文成王。
[編集] 略歴・人物
若い頃は魏の東中郎将などを歴任した。甥の武帝(司馬炎)が魏を滅ぼして、帝位に即くと汝南王に封じられ、その信頼は絶大だったという。
290年4月に武帝が56歳で崩御する際に、彼は武帝の皇后楊氏の父・楊駿と共に皇太子の司馬衷(恵帝)の後見役を遺託された。そのときに司馬亮は予州に駐屯していたために、武帝の臨終を看取ることができなかった。ここで、外戚として実権を把握したい楊駿は、司馬亮が洛陽に帰還することを妨害した。
一方、恵帝の皇后である賈南風は、夫の大叔父の司馬亮と外祖父の楊駿の存在を快く思わなかった。そこで、腹心の孟観、李肇、董猛らに、予州にいた司馬亮に楊駿を誅殺させるよう命じた。このときすでに年老いていた司馬亮だったが、その話を聞くと許昌に赴いて挙兵した。
さらに賈南風は、「楊駿に謀反の気配あり」と、21歳の若き荊州都督の楚王・司馬瑋(武帝第5子)を扇動した。激怒した司馬瑋は洛陽に進撃して、楊駿を初めとする楊一族を皆殺しにした。
こうして楊一族が誅滅されると、賈南風は、司馬亮を名誉職である太宰に任命し、太保・衛瓘と共に要職に就けた。そこには、大将軍になった楚王・司馬瑋が以前から大叔父の司馬亮と衛瓘を何もできない老人と卑下していたのを利用し、相互に政権を巡って争わせようという意図があった。
これに踊らされるかたちで、宗室の長老である司馬亮は、衛瓘と相談の上、従孫の司馬瑋の軍権を剥奪し、「封地の楚に戻るべし」との命を出し、これを聞いた司馬瑋は逆上した。我が事成れりと判断した賈南風は恵帝に「太宰、太保の長老は謀反を企んでおります。直ちに楚王に命じて、討伐すべきです」と上奏した。恵帝は妻の言いなりのままに司馬瑋に詔を下した。司馬瑋は直ちに軍隊を動かし、司馬亮と衛瓘を討伐、二人は殺害され、その首級は晒し首にされたという。
これをきっかけに、八王の乱という大規模な内乱に発展していった。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 世子・司馬粋 (早世)
- 汝南懐王・司馬矩
- 西陽王・司馬羕
- 南頓繇王・司馬宗
- 汝陽王・司馬煕
- 汝南侯・司馬祐 (字:矩子)