伽耶
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伽耶 | |
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三国時代の地図、5世紀終わり頃 | |
各種表記 | |
ハングル: | 가야 |
漢字: | 伽倻、加耶 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
カヤ |
ラテン文字転写: | Gaya |
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伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記された[1]。かつてはこの地域は、倭国(ヤマト王権)の朝鮮半島における出先機関(任那日本府)に相当するものが所在するとも考えられたが、韓国の学者を中心に否定する意見もあり、日本国内においても「任那日本府」の名称は『百済本紀』の編纂者がヤマト王権に迎合するために用いたものであり、伽耶諸国と任那日本府とを同一視することは誤りとする説が出されたことがあった[2]。また、任那とは伽耶諸国の任那加羅(金官加羅・駕洛国)の勢力範囲を指し、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある[3]。現在では、『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書にも伽耶を中心に朝鮮半島における倭の活動が記されていること、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている『広開土王碑』の改竄説が否定されたこと[4]、また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見され始めたこと[5]、そして新羅・百済・任那の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと[6]等により、伽耶地域にヤマト朝廷から派遣された軍人・官吏、あるいはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が現れて、統治をしていたことが有力視されるようになっている。
朝鮮半島の諸国の中では距離的に日本に最も近いこともあり、日本とは古くから交流があった。古代日本語においては「韓」の訓として「から」を用いていることからもそのことはうかがえる。ちなみに、「から」という日本語は朝鮮半島との関係が絶たれ唐が最も身近な外国となった平安時代以降はもっぱら「唐」の訓として使用されるようになり、室町時代後期に南蛮貿易を介して新たな文物が日本に来るようになってからは、「からいも」などのように外国一般を指す語としての用法が生まれ、現在に至っている。
目次 |
[編集] 概要
『三国史記』『三国遺事』などの文献史料では3世紀までは伽耶諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などが考古学資料で確認できるように、紀元前1世紀頃に初期形態の国家が形成されたと推測される。紀元前後に鉄器文化が普及するとともに弁韓諸国が出現し、これら諸国間の統合が進行して3世紀には南東部の金官国(慶尚南道金海市)を中心にした前期伽耶連盟が成立したと考古資料から推測されている。5世紀初めには金官国の勢力は衰え、5世紀後半には北部の大伽耶国(慶尚北道高霊郡)を中心にした後期伽耶連盟が形成されたと考古資料から推測されている。6世紀初めには新羅・百済ともわたりあって独自勢力を確立したが、[要出典]最終的には562年に新羅に併合された。
[編集] 前期伽耶連盟
この呼称は文献史料には一度も出現せず、考古学の成果と文献史料を総合した現代的概念である。
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であり、金官伽耶を盟主として前期伽耶連盟を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争ったりした。前期伽耶連盟の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、高霊・咸陽の内陸山間地方は後進状態にあった。[要出典]
4世紀初に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼすようになった。さらに4世紀中頃になると百済も朝鮮半島南端の伽耶にまで影響力を及ぼすようになった。また新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。伽耶は楽浪との交易断絶で打撃を受けたが、百済と商業交易を引き続き行った。このころから、百済・倭国と関係を深め、倭国の軍事力を利用するために倭国の外交機関が設置されていたとする説がある[3]。広開土王碑文に見られるように、400年に高句麗の広開土王の軍隊が洛東江下流まで達して伽耶を討伐したので、前期伽耶連盟は大きな打撃を受けて瓦解した。これに比べて高霊・咸陽などの内陸山間地域は戦争の被害を被らないで勢力を維持することができ、新羅に近い伽耶地域は新羅の影響圏に入った。[要出典]
[編集] 後期伽耶連盟
この呼称も文献史料には一度も出現せず,考古学の知見に文献史料を統合した現代的概念である。
高句麗の遠征を受けていったんは勢力が縮小した伽耶地域は、5世紀に入って再び成長し始めた。西部慶尚道内陸地方の高霊・居昌・山清・咸陽・南原などの勢力は急速に発展し、先進地域から脱落した慶尚南道海岸地帯の金海・咸安・泗川などの勢力も復旧の動きを見せていた。このような中、新羅は5世紀前半に高句麗の干渉を排除して百済と和親を結んだが、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済を撃って首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させ、新羅はこの機会に秋風嶺を越えて西方に進出するなど国際環境が大きく変動した。 5世紀後半には旧伽耶地域の小国の間に伽耶の再統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成した。479年に南斉に朝貢して<輔国将軍・加羅王>に冊封されたのはこの高霊地方の大伽耶国と考えられている。[要出典]
大伽耶を中心にした後期伽耶連盟は、481年には高句麗・靺鞨の新羅侵入に対して百済と同盟して援兵を送るほどに成長した。その後、百済と倭とが河東を交易場に利用しようとすると、大伽揶は百済と小白山脈を境界とし軍事的に対峙するようになった。百済が卓淳国・多羅国などへ進出しようとしてくると、大伽耶の異脳王は国際的孤立から脱するために522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を実現して安定をはかった。しかしこの同盟の後に新羅は却って伽耶諸国に攻め入り、532年に金官伽耶が新羅に服属してしまい、百済に救援を求めることとなった。百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して伽耶諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に伽耶諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が伽耶諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして伽耶南部地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると、新羅の優勢が決定的となり、562年には盟主の大伽耶(高霊)が新羅に投降したことで、伽耶諸国は新羅領に組み入れられることとなった。[要出典]
[編集] 伽耶諸国
[編集] 駕洛国(金官伽耶)
駕洛国、もしくは金官伽耶・金官加羅・任那加羅[3]ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衝王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官伽耶の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。
駕洛国の歴代王については、朝鮮の君主一覧#駕洛(本加耶・金官伽倻)を参照。
[編集] 大伽耶
金官伽耶もまた大伽耶(大駕洛)と称されていたように、大伽耶の表現そのものは固有名詞ではなく、伽耶諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡[7])が、一般的には大伽耶を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉王』(惱窒朱日ㆍ內督朱智)が大伽耶の始祖、弟『惱窒靑裔』(首露王)が金官伽耶の始祖であるとしており、新興の大伽耶がそれまでの盟主であった金官伽耶を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。
『南斉書』に見える加羅国王荷知は高霊の伽耶王嘉悉王に当たると考えられている。[要出典]
[編集] その他の伽耶
伽耶連盟の盟主となったとされる金官伽耶・大伽耶(伴跛)だけではなく、阿羅伽耶(安羅)(慶尚南道咸安郡)、古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがあった。[要出典]それ以外での小国としては、多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市[8])、己汶(全羅北道南原市)、滞沙(慶尚南道河東郡)等が挙げられる。
これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されている[5]。(→後述)
[編集] 伽耶の言語
伽耶の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。伽耶語について具体的に記述したものとしては、『三国史記』巻44・斯多含伝に「栴檀梁城門名。加羅語謂門為梁。」とあるものが唯一の例である。「梁」は新羅語の訓読字で「tur(tol)」と読むことから、加羅語(伽耶語)では門のことを「tur(tol)」と言ったことがわかる。李基文は本例を日本語の「to(戸・門)」や満州語の「duka」と結び付け、高句麗語ら夫余系言語の影響を示唆している。
その他では、『三国史記』の伽耶地域の地名表記から伽耶語を再構する試みも行われている。李基文は、「玄驍県、本推良火県。一云三良火。」(巻34)から「推」の訓「mir」に基づき数詞「mir(三)」を、「漆隄県、本漆吐県。」(同)から普通名詞「to(堤)」を、それぞれ再構し、前者については高句麗語及び日本語と、後者については高句麗語と、それぞれ結び付けることができるのではないかと指摘している。
[編集] 伽耶研究史
第二次世界大戦以前の日本における伽耶諸国の研究については、当時の植民地政策を正当化しようとする姿勢から、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部を支配するための出先機関であるとする前提に立つものであった。考古学的な研究についても、研究そのものに朝鮮人・韓国人の参画が認められていなかったこともあり、まず任那日本府の解釈に沿って日本府を合理的に説明しようとする姿勢から抜け切ることができなかった。そのような解釈は明治期の那珂通世、菅政友らの研究から見られ、津田左右吉を経て戦後に末松保和『任那興亡史』において大成された。その反動として戦後の研究では、日本の出先機関が存在したことを否定しようとする姿勢が強く、現代的政治的欲求からみた解釈に左右されることが多かった。
1970年代以降には洛東江流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに、過去の政治的欲求に基づく解釈から解放された議論が盛んとなった。この時期の日本での代表的論考は井上秀雄『任那日本府と倭』である。
1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見[5]を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されており[3][9]、引き続き考古学的調査による解明が待たれている。
[編集] 脚注
- ^ 『宋書』、『日本書紀』など。
- ^ 井上秀雄によれば、任那日本府とは、『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済が高句麗・新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして迎合的に用いたものであり、『魏志』(『三国志』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権(ヤマト王権、のちに日本の国号を用いる)とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れるという。(→井上2004 pp.106-107.)
- ^ a b c d 吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。
- ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
- ^ a b c 1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった(沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)))、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている國學院大学「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の西隣であり、金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなうことが知られている。
- ^ 朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にはヒスイ工房が発見されないこと(門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004)、に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した(早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会)。
- ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
- ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
- ^ 朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。また、[[田中俊明 (朝鮮史)|]]は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。
[編集] 参考文献
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 井上秀雄『古代朝鮮』 講談社<講談社学術文庫>、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)
- 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)
- 吉田孝『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997 ISBN 4-00-430510-1
- 森公章『「白村江」以後』講談社、1998 ISBN 4-06-258132-9