ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン辺境伯)
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ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・バーデン(Markgraf Ludwig Wilhelm von Baden, 1655年4月8日 - 1707年1月4日)は、オーストリアの軍人。バーデン辺境伯。
バーデン辺境伯フェルディナント・マクシミリアンと、妃ルイーザ・クリスティーナ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ(カリニャーノ公トンマーゾの次女)の一人息子としてパリで生まれた。バーデン辺境伯家は、ツェーリング家のカトリックを信仰する傍系である。母方の従兄に、同じくオーストリア軍人であったプリンツ・オイゲンがいる。
ルートヴィヒは、『トルコ人ルートヴィヒ』(Türkenludwig)『帝国の盾』と呼ばれた。赤い上着が野戦でもよく目立つためトルコ人に『赤』と呼ばれていた。彼は従兄プリンツ・オイゲン同様、オスマン帝国の侵入に対するヨーロッパ側の防衛者であった。彼は神聖ローマ帝国軍の司令官となった。1689年には、ハンガリーにおいて駐留軍の最高司令官となり、1691年のスランカメン(現セルビアの地名)でオスマン帝国軍の侵攻時に勝利を挙げた。そのすぐ後に、大同盟戦争のライン戦線に送られた。
彼はスペイン継承戦争でも軍を指揮し、1702年9月にランダウ(現ドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)を占領した。しかしフリートリンゲンでド・ヴィラール公率いるフランス軍に打ち破られた。1704年、彼はマールバラ公ジョン・チャーチルのドイツ侵攻作戦において勝利をプリンツ・オイゲンとともに挙げた。彼はシェレンスベルクの戦いにおいて顕著であり、ブレンハイムの戦いからバイエルン軍を敗走させインゴルシュタットとランダウの包囲・征服をした。
皇帝レオポルト1世は、ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと、20歳年下の女子相続人ジビーレ・アウグステ・フォン・ザクセン=ラウエンブルクを結婚させた。2人の間には9子が生まれた。
- レオポルト・ヴィルヘルム(1694年 - 1695年)
- シャルロッテ(1696年 - 1700年)
- カール・ヨーゼフ(1697年 - 1703年)
- ヴィルヘルミーネ(1700年 - 1702年)
- ルイーゼ(1701年 - 1707年)
- ルートヴィヒ・ゲオルク(1702年 - 1761年) バーデン辺境伯
- ヴィルヘルム・ゲオルク(1703年 - 1709年)
- アウグステ・マリー・ヨハンナ(1704年 - 1726年)
- アウグスト・ゲオルク(1706年 - 1771年) バーデン辺境伯
皮肉なことに、軍歴のほとんどをフランスとの戦いに費やした彼が亡くなって17年後、ただ一人成人した娘アウグステ・マリーは、フランス王族のオルレアン公ルイ(当時その父フィリップはフランス摂政として悪名高かった)と結婚した。
ルートヴィヒの死後、未亡人となったジビーレは夫を記念して夏の城シューロス・ファウォリテを建設した。