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ホータン王国 - Wikipedia

ホータン王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:カローシュティー文字で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)
ホータン王Gurgamoyaの硬貨。1世紀。表面:カローシュティー文字で「偉大なる王、ホータンの王、Gurgamoya」。裏面:中国語で「重廿四銖銅銭」(24銖銅銭,写真下部の文字が「銅」)

ホータン王国于闐(於闐),Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ天山南路沿いにあった、西暦56年から1006年の間に存在した仏教王国。タリム盆地タクラマカン砂漠の南方にあった。現在では中国新疆ウイグル自治区にあたる。コータン王国とも書かれる。

目次

[編集] 首都

ホータン王国の首都は現在のホータン市にあたる。代の中国では「于窴」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによるおよび絹織物、その他軟玉硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。

[編集] 文化

ホータンで発掘されたマスク。7-8世紀。
ホータンで発掘されたマスク。7-8世紀。

伝説によると、インドの仏教徒皇帝アショーカの長男が、紀元前3世紀初めに国の基礎を建てたという。しかしながら、これより数世紀前から月氏(後にクシャーナ朝を開いたことで有名)による中国(現在の中国でなく西域を除く地域)との軟玉、硬玉の貿易があったことが知られている。ホータンで産出する玉は「禺氏の玉」と呼ばれ、貴重な上あまり産出しない中国では珍重された。この禺氏は月氏のことである。

その後、ホータン王国は仏教とりわけ大乗仏教の中心地のひとつとなった。(これに対して砂漠の反対側にあるクチャ王国は縁覚系の仏教王国だった。)中国の僧法顕が、5世紀始めにホータン王国にある大小14の僧院を訪れている[1]。文化交流により、中国語サンスクリット語プラークリット語チベット語などが使われていた。

ホータンは、中国外でが生産された初めての場所だった。考古学者の発掘作業で発見された壁画には、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中にカイコの卵を隠していたと記されており、1世紀頃の出来事と見られる[2]

[編集] 歴史

1世紀に作られた漢書の漢前史には、ホータンには3千3百世帯、人口1万9300人、うち戦士2400人であると記されている[3][4]

中国がシルクロードで西洋と交流を始めたことにより、ホータンは急速に発展し、人口は4倍になった。後漢書西域伝[5]には次のように記されている。

ホータン王国の中心は西城であり、洛陽から1万1700里(4,865km)の場所にある。3万2千世帯、人口8万3千、兵士3万人以上を支配している。
建武(西暦25-56年)の終わりごろ、莎車(現ヤルカンド県)王の賢(Xian)がホータンを攻めた。莎車王はホータン王の兪林を驪歸王に更迭し、弟の位侍をホータン王とした。
後漢の明帝の時代、ホータンの将軍休莫霸が莎車王に反乱を起こし、60年、自分がホータン王になった。休莫霸の死後、兄の子の広徳が王位を継ぎ、61年に莎車王を破った。広徳はさらに精絶(en)西北から疏勒までの13王国を服従させた。一方、ロプノール湖西岸の鄯善も繁栄し始めていた。ホータンと鄯善は、天山南路にある数少ない国であった。
西暦131年、ホータン王放前は息子の一人を遣わして漢に朝貢した。
西暦151年、漢の長史である趙評がホータンで死に、趙評の子の趙雲が喪に服すため中国への帰国の途についた。その道中で拘彌国(現中国ケリヤ県)を訪れた。拘彌王成国はホータン王の建素と対立していたため、趙雲にこう言った。「お前の父が死んだのは、ホータン王が胡医に命じて傷口に毒を塗ったからだ。」趙雲はその話を信じ、漢国境の都市敦煌太守の馬達に報告した。
152年、王敬がホータン長史に任命され、合わせて事件の解明を命じられた。拘彌王成国は王敬に対しても「ホータン国人は私が王になることを望んでいる。建の罪を明らかにすれば、ホータン国人はきっと服するだろう」と説いた。功名を求めていた王敬は成国の話を信じ、建を夕食に招いて殺そうとした。この謀計を建に密告するものがいたが、建は「私は無罪だ。だから王長史が私を殺すはずがない」と退けた。
翌日、建は家臣数十人を従えて王敬を訪ねた。建たちは着座し、王敬に酒を勧めにいった。その時、王敬は左右の家臣の無礼を叱り、それを合図に王敬の部下は皆逃げ出した。それに代わって成国の部下が刀を持って侵入し、「大事は既に定まった。疑いなし」と叫んで建を切り殺した。
それを聞いたホータン侯将の輸覚らが兵を集めて王敬に迫ったため、王敬は建の首を高く晒して「私は天子の使いである。建に罪があったため、これを誅しただけだ」と反論した。しかし輸覚らは建物を焼いて王敬の部下を焼き殺し、王敬を斬り殺してその首を市中に晒した。
ところが今度は輸覚が王位を狙ったため、国人は輸覚を殺し、建の子の安を王位につけた。敦煌太守の馬達はこれを聞き、桓帝に無断でホータンを攻めようとしたため、敦煌太守は宋亮に変えられた。宋亮はホータンに通知して輸覚に自殺するよう命じたが、輸覚は何ヶ月も前に死んでいたため、困ったホータン国人は輸覚の死体から首を切り取って敦煌に送った。宋亮は後日そのインチキを知ったが、すでに出兵は無理だった。ホータン国人はこれを知って漢を侮ったという。[6]
3世紀のタリム盆地。Kashgar=喀什,Kuqa=亀茲,Karaxahr=焉耆,Turfan=吐魯番,Hotan=於闐,Shanshan=鄯善
3世紀タリム盆地。Kashgar=喀什,Kuqa=亀茲,Karaxahr=焉耆,Turfan=吐魯番,Hotan=於闐,Shanshan=鄯善

8世紀チベットの仏教史「ホータン国授記」(The Prophecy of the Li Country,于闐國授記)には、クシャーナ朝カニシカ1世がインド中部の都市アヨーディヤーを攻めたとき、ホータン王が助力したと書かれている。これが本当であれば、西暦127年の出来事なので、中国人班超の息子班勇がホータンを屈服させたとされる年と同じになる。

「Li(ホータン)の統治者Vijaya Krīti王がアーリア文殊(Ārya Mañjuśrī)の像を建てた後、伝道者Spyi-priと呼ばれたホータンの住民Arhatが、信心深い友人のためにSru-ñoの精舎(vihāra)を建てた。Vijaya Krīti王はカニシカ1世に助力して、クチャ王らと共にインドに侵攻し、So-ked(Saketa)を占領した。Vijaya Krīti王は多くの奴隷を得て、Sru-ñoの卒塔婆(stūpa)に置いた[7]

11世紀の始めに、イスラムの侵攻を受けてその支配下に入った。1271年から1275年の間にホータンを訪れたマルコ・ポーロは、ホータンの人々は、皆マホメットの信奉者であると報告している。

11世紀のトルコの学者、ムハマド・カシュガリ(en)は、著書Diwanu Lughat at-Turkの中で、ホータンへのイスラム教伝道について次のように述べている。

”川が物を押し流すように、
我々は都市に押し寄せた。
我々は仏僧院を破壊した。
葉の上に立っているブッダの彫像も。”[8]

[編集] 年表

  • 西暦56年:莎車王の賢(Xian)がホータンを攻めた。莎車王はホータン王の兪林を驪歸王に更迭し、その弟の位侍をホータン王とした。
  • 60年:ホータンの将軍休莫霸が莎車王に反乱を起こし、自分がホータン王になった。
  • 61年:王位を継いだ休莫霸の兄の子広徳が、莎車王を破った。広徳はさらに精絶(en)西北から疏勒までの13王国を服従させた。
  • 78年:中国の将軍班超がホータンを攻めた。
  • 105年:西域が征服され、ホータンも独立を失った。
  • 127年: ホータン王Vijaya Krītiが、クシャーナ朝カニシカ1世のインドアヨーディヤー攻略を助けた。
  • 127年: 中国の将軍班勇が焉耆、庫車、喀什、ホータン、疏勒など17カ国を征服し、中国の版図となった。
  • 129年: ホータン王Fangqianが于田王Xingを殺す。Fangqianは息子を于田王にする。
  • 131年: Fangqian、漢に朝貢する。中国皇帝は于田を放棄する代わりに罪を許すと提案するが、Fangqianは拒絶する。
  • 132年: 中国はカシュガル王に命じて、2万の兵でホータンを攻める。カシュガル王は数百の人を殺し、兵に略奪を許した。カシュガル王は前王Xingの親族Chengguoを于田王にして帰還する。
  • 175年: ホータン王Anguoが突然、于田を攻める。Anguoは于田を始めとする多数を殺害する[9]
  • 399年 中国の巡礼僧Faxianが周辺の仏教国を訪問する[10]
  • 632年: ホータン、中国の威光に服して属国になる。
  • 644年: 中国の巡礼僧玄奘三蔵が7-8ヶ月ホータンに滞在し、王国の詳細を記録する。
  • 670年: チベット系の吐蕃王朝が侵入し、ホータンを含む唐の安西四鎮を征服する。
  • 670年-673年: ホータンは吐蕃王朝の属国となる。
  • 674年: ホータン王Fudu Xiong (Vijaya Sangrāma IV)と一族がチベットに反旗を翻すが失敗、中国に亡命する。そのまま帰国できず。
  • 680年 - 692年: 'Amacha Khemegがホータン領主として統治する。
  • 692年: 中国皇帝武則天吐蕃王朝からホータンを奪還し、中国の保護領とする。
  • 725年: Yuchi Tiao (Vijaya Dharma III)が、トルコ人と共謀した罪で中国に打ち首にされる。中国はYuchi Fushizhan (Vijaya Sambhava II)を王位につける。
  • 728年: Yuchi Fushizhan、中国皇帝から正式にホータン王の称号を受ける。
  • 736年: Fudu Da (Vijaya Vāhana the Great)がYuchi Fushizhanに代わって王位につき、中国皇帝は彼の妻に称号を授ける。
  • 740年: Yuchi Gui (Btsan-bzang Btsan-la Brtan)がFudu Daに代わって王位につき、仏教の迫害を始める。ホータンの仏教僧は、チベット王Mes-ag-tshomsの中国人妃を頼ってチベットに逃亡する。しかし間もなく王妃が天然痘で死んだため、僧達はさらにガンダーラまで逃げる。
  • 740年: 中国皇帝は、Yuchi Guiの妻に称号を授ける。
  • 746年: Prophecy of the Li Countryが完成し、後にテンギュルに加えられる。
  • 756年: Yuchi Shengは政権を弟Shihu (Jabgu) Yaoに譲る。
  • 786年 から 788年:Yuchi Yaoが統治する時代、中国の仏教巡礼者悟空がホータンを訪問した[11]
  • 912年 - 966年: 尉遅烏僧波が王となる。年号を同慶とする。
  • 961年: 中国()に使節が来る。使節は「毎年秋に国人が川で撈玉と呼ばれる玉を取る。土地には葡萄を植えており、それを醸して美酒とする。民間では俗信が流行っている」と語っている。[12]
  • 965年: ホータン僧善名らが来訪し、ホータン宰相からの通商を求める手紙を中国に渡す。[12]
  • 967年 - 977年: 尉遅蘇拉が王となる。年号を天尊とする。
  • 969年: 王の男総嘗が中国(宋)に朝貢する。[12]
  • 971年: 仏教僧吉祥がホータン王からの中国皇帝への手紙を運ぶ。そこには、彼がカシュガルから手に入れたダンスする象(舞象)を送ると書いてあった。[12]
  • 978年? - 985年?: 尉遅達磨が王となる。年号を中興とする。
  • 986年? - 999年?: 尉遅僧伽羅摩が王となる。年号を天興とする。
  • 983年? - 1006年?: 異説。尉遅僧伽羅摩が王となる。年号を天寿とする。
  • 1006年: ホータン、イスラムのYūsuf Qadr Khānに征服される。Yūsuf Qadr KhānはKāshgarとBalāsāghūnのイスラム君主の兄弟あるいは従兄弟と言われる。[13]
  • 1271年 から 1275年の間:マルコポーロがホータンを訪れる。[14]

[編集] 周辺地理

[編集] 注釈

  1. ^ Silkroads foundation [http://www.silk-road.com/artl/fahsien.shtml Travels of Fa-Hsien - Buddhist Pilgrim of Fifth Century By Irma Marx],2007-08-02 access
  2. ^ Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. Appendix A. [1]
  3. ^ 呼嚕嚕収録『漢書 西域伝』に「于闐国,王治西城,去長安九千六百七十裏。戸三千三百,口万九千三百,勝兵二千四百人」とある。
  4. ^ Hulsewé, A. F. P. and Loewe, M. A. N. 1979. China in Central Asia: The Early Stage 125 BC – AD 23: an annotated translation of chapters 61 and 96 of the History of the Former Han Dynasty, p. 97. E. J. Brill, Leiden.
  5. ^ 呼嚕嚕収録『後漢書 西域伝』の「于窴國」の箇所。
  6. ^ 英語版は Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. [2]によっているが、日本語版では前述の呼嚕嚕のページから訳した。
  7. ^ Emmerick, R. E. 1967. Tibetan Texts Concerning Khotan. Oxford University Press, London, p. 47.
  8. ^ Shuyun, Sun. Ten Thousand Miles Without a Cloud, HarperPerennial, 2004
  9. ^ Hill, John E. 2003. "Annotated Translation of the Chapter on the Western Regions according to the Hou Hanshu." 2nd Edition. [3]
  10. ^ Legge, James. Trans. and ed. 1886. A Record of Buddhistic Kingdoms: being an account by the Chinese monk Fâ-hsien of his travels in India and Ceylon (A.D. 399-414) in search of the Buddhist Books of Discipline. Reprint: Dover Publications, New York. 1965, pp. 16-20.
  11. ^ Hill, John E. July, 1988. "Notes on the Dating of Khotanese History." Indo-Iranian Journal, Vol. 31, No. 3, p. 185.
  12. ^ a b c d 呼嚕嚕宋史・外国伝6の于闐の条より
  13. ^ Stein, Aurel M. 1907. Ancient Khotan: Detailed report of archaeological explorations in Chinese Turkestan, 2 vols., p. 180. Clarendon Press. Oxford. [4]
  14. ^ Stein, Aurel M. 1907. Ancient Khotan: Detailed report of archaeological explorations in Chinese Turkestan, 2 vols., p. 183. Clarendon Press. Oxford. [5]

[編集] 参考文献

  • Beal, Samuel. 1884. Si-Yu-Ki: Buddhist Records of the Western World, by Hiuen Tsiang. 2 vols. Trans. by Samuel Beal. London. Reprint: Delhi. Oriental Books Reprint Corporation. 1969.
  • Beal, Samuel. 1911. The Life of Hiuen-Tsiang by the Shaman Hwui Li, with an Introduction containing an account of the Works of I-Tsing. Trans. by Samuel Beal. London. 1911. Reprint: Munshiram Manoharlal, New Delhi. 1973.
  • Emmerick, R. E. 1967. Tibetan Texts Concerning Khotan. Oxford University Press, London.
  • Hill, John E. 2004. The Peoples of the West from the Weilüe 魏略 by Yu Huan 魚豢: A Third Century Chinese Account Composed between 239 and 265 CE. Draft annotated English translation. [6]
  • Legge, James. Trans. and ed. 1886. A Record of Buddhistic Kingdoms: being an account by the Chinese monk Fâ-hsien of his travels in India and Ceylon (A.D. 399-414) in search of the Buddhist Books of Discipline. Reprint: Dover Publications, New York. 1965.
  • Watters, Thomas (1904-1905). On Yuan Chwang's Travels in India. London. Royal Asiatic Society. Reprint: 1973.

[編集] 関連文献

  • Hill, John E. (2003). "The Western Regions according to the Hou Hanshu. 2nd Edition." "Appendix A: The Introduction of Silk Cultivation to Khotan in the 1st Century CE." [7]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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