パルミラ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パルミラ王国 (260年? - 272年) はローマ帝国の軍人皇帝時代(いわゆる「3世紀の危機」)に分離・独立した国家であり、通商都市パルミラを首都とし、シリア・パレスティナ及び皇帝私領アエギュプトゥス(エジプト)等を支配した。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 成立の経緯
235年に皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺されて後、ローマ帝国はいわゆる「軍人皇帝時代」と呼ばれる時期に入り、短命の皇帝が相次いだ。その中で東方のライバル国家・サーサーン朝ペルシア(226年にパルティアを滅ぼして成立)からの攻撃に対して、260年に皇帝ウァレリアヌスが虜囚となるように余力を失った状態にあった。
その中で、パルミラ生まれの武将セプティミウス・オデナトゥスが自前の軍隊を率いてペルシアからの攻撃への防御に当たる状態であった。その為、時のローマ皇帝ガリエヌスはオデナトゥスを東方全域の司令官に任命、オデナトゥスもその期待に応えていたものの、267年オデナトゥスは宴席で一族の者によって刺殺された。
オデナトゥス暗殺後、妻ゼノビアが一連の事態を収拾して、自らの幼少の息子ウァバラトゥスを後継の地位に据え、自身はその後見人となり実権を手中に収めた。ローマ西方には既にガリア帝国が分離する等混乱状態にあり、その間隙を縫う形でゼノビアはパルミラを根拠地として、ローマの東方属州であるシリア、パレスティナ、カッパドキア及びアエギュプトゥスへ侵攻してこれら地方を支配、ゼノビアは息子を「アウグストゥス」と称するに至った。
[編集] パルミラ陥落
270年にローマ皇帝となったアウレリアヌスは北方異民族の侵入を食い止めた後、271年夏にパルミラ奪還の為、自ら軍を率いて小アジアへ親征した。ビザンティオンやティアラを陥落させ、更にパルミラ軍との2度の戦いにいずれも勝利(この際にウァバラトゥスは戦死)。ゼノビアはパルミラへ敗走するも、ローマ軍はこれを包囲。籠城戦が長引く中、ゼノビアはパルミラを脱してペルシアへ逃走を図ったものの、ローマ軍に捕らえられ、272年を以てパルミラ王国は瓦解するに至った。
尚、ゼノビアはローマへ護送されるが、エジプトやパルミラ住民がローマ軍撤退後に意を翻して反乱を起こした為、ローマ軍はパルミラへ戻り攻撃。アウレリアヌスは都市・パルミラに対しての暴行・略奪を許可した(尚、アウレリアヌスはパルミラ遠征ではどの都市にもこれまで一切の蛮行を許していない)。
この後、パルミラに過去の繁栄が戻ることは無かった。尚、ガリア帝国はパルミラ王国征服後に降伏。ゼノビアはアウレリアヌスの凱旋式に参列させられている。
[編集] 関連項目
ローマ帝国 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
参考:古代ローマ · ローマ皇帝一覧 | |||||||||
|
→ (イタリア内) → (西ヨーロッパ) → (東ヨーロッパ) |