ニコライ・クレスチンスキー
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ニコライ・ニコライェヴィチ・クレスチンスキー(Николай Николаевич Крестинский, 1883年10月13日 - 1938年3月15日)は、ロシアの革命家、ソ連の政治家。ヴャチェスラフ・モロトフによると、クレスチンスキー家は、ユダヤ教から正教会へ改宗した一族である[1]。
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[編集] 生涯
[編集] 頂点への昇進
クレスチンスキーは1903年、ロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキ派に属した。帝政ロシアを打倒した二月革命の後、彼は有能な組織者であることを証明し、1917年8月3日ボリシェヴィキ党中央委員会委員に選出された。1919年1月16日彼は最初のソビエト組織局員となり、1919年3月25日に最初の政治局員となった。また1919年11月29日には中央委員会書記局書記も兼ね、党の筆頭書記として、その後1年半を務めた。
[編集] 権力の失墜
ロシア内戦におけるボリシェヴィキの勝利の後、1920年末から21年初めまでクレスチンスキーは、国の進むべき方向について益々激しくなる論争において、レフ・トロツキー派を支持した。1921年3月、第10回党大会においてウラジーミル・レーニンが勝利した後、クレスチンスキーは政治局、組織局、書記局のポストを失い、駐ドイツ大使となった。この当時、ドイツとの関係は、ソビエト・ロシアにとり決定的かつ微妙なものであったが故に、それ以前とは異なり、このポストは重要かつ機密にかかわるものとなっていた。
クレスチンスキーは1923年から27年初めまで、トロツキー及び左翼反対派を支持していたが、1927年末にトロツキーから離れた。彼は1928年4月には完全に、反対派と袂を分かった。
[編集] 見せ物裁判
クレスチンスキーは大粛清期に逮捕される1937年まで、外交官として働き続けた。1938年3月12日、彼は裁判(21ある裁判の1つ)にかけられた。モスクワ裁判においては、他のほとんど全ての被告が罪を認める一方で、クレスチンスキーは初め、全てを否定していたが、翌日にはそれを覆した:
3月12日、彼は裁判長ワシリー・ウルリフ (Vasili Ulrikh) に述べた:
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- 「私が有罪など、認めるわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。
- 私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、
- そんなものの存在すら知らない。また、私個人に転嫁された犯罪は
- ただの一つたりとも行ってはいない。 ― そして特に、ドイツの
- 情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である。」
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翌日、彼はその姿勢を変え、全面的に覆した:
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- 「昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされた
- いわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして
- 私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のことを述べることができず、
- 有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と
- 述べる代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました。」
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クレスチンスキーがその考えを覆した理由に、物理的あるいはそれ以外の強制がなかったとは信じ難い。この挿話は、十分に練られた1930年代末の見せ物裁判の中では、ヨシフ・スターリンの失敗例の一つであった。
1938年3月、クレスチンスキーは死刑を言い渡され、執行された。彼はフルシチョフの不完全な非スターリン化時代に一部無罪とされ、ペレストロイカ時代にすべての罪状で無罪とされた。
[編集] 脚注
- ^ Chuev, Felix (ed), Molotov Remembers: Inside Kremlin Politics, 1993, Dee Ivan Inc., ISBN 1566630274