ダグラス・エンゲルバート
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ダグラス・エンゲルバート(Douglas Carl Engelbart, 1925年1月30日 - )は、マウス、ハイパーテキスト、ワードプロセッサ、マルチウィンドウ・システムなどの発明者。
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[編集] 学生時代
エンゲルバートはアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに生まれ、1948年オレゴン州立大学で電気工学の学士号を取得、1952年カリフォルニア大学バークレー校で工学修士号を取得[1]、1955年同校で情報工学(Electrical Engineering and Computer Science)の博士号を取得した。
第二次世界大戦の際、エンゲルバートはフィリピンで無線技術者として働いていた。そこでヴァネヴァー・ブッシュの論文 "As We May Think" に触れ、着想を得た。戦後、エンゲルバートはバークレーで学び1955年に博士号を取得。そのころバークレーで行われていたCALDICというコンピュータの開発に学生として関わった。彼は学位論文のテーマだった記憶装置を商業化するための努力を1年ほど行ったが実らず、スタンフォード大学と当時関わりが深かった SRI(Stanford Research Institute) に雇われ、磁気論理デバイスの開発に関わることとなった。
[編集] 経歴と業績
科学史の専門家 Thierry Bardini がいみじくも指摘したとおり、エンゲルバートを様々な研究開発に向かわせた彼の複雑な個人的哲学は、今日の哲学と科学技術の共進化を先取りしていた。Bardini は、エンゲルバートがベンジャミン・ウォーフの言語的相対論に強く影響されていたと指摘する。[1]
ウォーフは言語の洗練度が思考の洗練度を左右するとしたが、エンゲルバートは技術のレベルが情報操作能力を左右するとし、技術開発によって我々の能力が向上すると考えた。そこで彼は情報を直接的に操作するコンピュータを使った技術の開発に向かい、同時に個人やグループの知的作業過程を洗練させる技術にも関心を寄せることとなった。エンゲルバートの哲学と研究の方向性は(自身がバイブルと呼んでいる)1962年の研究レポート Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework に明確に記述されている。ネットワーク指向の知性という概念に基づいてエンゲルバートは先駆的な業績を残すこととなった。
SRIインターナショナルでは、エンゲルバートはNLS(oN-Line System)の設計開発を主導した。エンゲルバートは Augmentation Research Center(ARC) を設立し、そこのチームでビットマップ・スクリーン、グループウェア、ハイパーテキスト、先駆的なGUIなどを開発していった。彼は1960年代中ごろにユーザインターフェイスのアイデアの多くを考案し開発した。そのころパーソナルコンピュータはもちろんないし、コンピュータは一般の人々には遠い存在で直接使用するなどほとんどあり得なかったし、ソフトウェアも個々のシステム向けの専用アプリケーションとして書かれることが多かった。
1967年、エンゲルバートはマウスの特許を申請し、1970年に取得した(米国特許番号 3,541,541)。その特許では "X-Y position indicator for a display system"(表示システムのためのX-Y位置指示器)とされており、金属ホイールを2つ持つ木製のマウスであった。エンゲルバートによれば、「マウス」と名づけられたのはしっぽに相当するコードが後ろにあったためだという。また、スクリーン上のカーソルは「バグ」と呼んでいたが、この用語は定着しなかった。
エンゲルバートはマウスの発明に関してロイヤルティーを受け取ったことはない。その第一の理由は、特許が1987年に失効したため、パーソナルコンピュータでマウスが必須のデバイスとなる前だった点が挙げられる。第二に実際に製品化されたマウスは彼の特許に記載されていたのとは異なる(改良された)機構を使用していた。インタビューで彼は「SRIはマウスの特許を取らせたが、その価値を理解していなかった。後で知ったことだが、SRIはアップルに4万ドルかそこらでライセンス提供したんだ」と証言している。
エンゲルバートは数々の発明品を統合して、1968年12月9日のコンピュータ会議(Fall Joint Computer Conference)でデモンストレーションを行った。これはアメリカなどではMother of all demos(全てのデモの母)と呼ばれている。
[編集] ARPANET
エンゲルバートの研究開発にはARPAから資金の一部が出ていたため、ARC はインターネットの前身であるアーパネットにも関与した。
1969年10月29日、世界初のコンピュータ・ネットワークARPANETによりUCLAの Leonard Kleinrock の研究室と SRI のエンゲルバートの研究室が接続された。Interface Message Processorが両方のサイトに置かれ、最初のインターネットのバックボーンを形成した[2]。
それ以外に、UCSBとユタ大学が最初の4ノードを構成した。1969年12月5日、4ノード全部が接続された。
ARCは世界初のネットワークインフォメーションセンターとなり、全ARPANETノードの接続を管理することとなった。また ARC は初期のRFCのかなりの部分を担っていた。
[編集] 企業人としての経歴の終わりとその後
エンゲルバートは様々な災難と誤解のため、1976年ごろから全く誰からも見向きもされない状態となった。彼の下にいた研究者の一部はパロアルト研究所へと移っていった。これはエンゲルバートへの不満やコンピュータの未来についての見解の相違などが原因である。エンゲルバートはタイムシェアリングシステムが有望だと考えたが、若い研究者たちはパーソナルコンピュータの可能性を追求したがっていた。この衝突は技術的なものであると同時にそれぞれの時代背景にも原因がある。エンゲルバートはタイムシェアリングしかなかった時代の人であり、若い研究者は能力や権力の集中が疑問視されていた時代の人間である。そしてパーソナルコンピュータの時代はすぐそこまで迫っていた。
Bardini はエンゲルバートに関する著書の中で、1970年代前半にARCの主要研究者らがいわゆる自己啓発セミナー(est)を受けた点を指摘した。est は当初はよいものと思われたが、ARCでは士気の低下と結束力の低下を招いた。
マイケル・マンスフィールドによる研究開発全体への支出制限法案、ベトナム戦争終結、アポロ計画終結といった要因により、ARCへのARPAやNASAからの資金は減らされた。SRIの経営陣はエンゲルバートのやり方に失望し、ARCの残存部分を Bartram Raphael の人工知能研究部門の配下とした。Raphael は ARC を Tymshare社に渡す交渉を行った。エンゲルバートはこの時期に自宅の焼失という災難にも遭っている。Tymeshare 社は NLS とエンゲルバートの研究室を買い取り、エンゲルバートを含む研究員の大部分を雇い入れた。Tymeshare 社は NLS の商用化を考えていた。Tymeshare 社は以前から ARC と共同研究を行っていて、ミニコンピュータ上へのNLSの移植などをした経験があった。
エンゲルバートは Tymeshare 社で自分が除け者にされていることに気づいた。Tymeshare 社はエンゲルバートのさらなる研究をしたいという要望を無視した。Tymshare社やマクドネル・ダグラス社(1982年にTymshareを買収)の経営陣には彼のアイデアに興味を示すものもいたが、開発のための資金は提供されることはなかった。エンゲルバートは1986年にマクドネル・ダグラス社を退社し、企業人としての経歴に終止符を打った。
1980年代終盤になると、エンゲルバートの業績の独創性と重要性が徐々に理解されるようになってきた。
1995年12月、ボストンでの第4回 WWW 会議でエンゲルバートは表彰された(後に Yuri Rubinsky Memorial Award と呼ばれるもの)。1997年、エンゲルバートは発明に関する世界最高の賞 Lemelson-MIT賞を受賞し 50万ドルを受け取った。また、同年チューリング賞も受賞した。1998年、Stanford Silicon Valley Archivesと Institute for the Future はスタンフォード大学でEngelbart's Unfinished Revolutionというシンポジウムを開催し、エンゲルバートと彼のアイデアを讃えた。2000年、ボランティアと資金提供者の協力を得てエンゲルバートは The Unfinished Revolution - II をスタンフォードで開催した。これは Engelbart Colloquium とも呼ばれ、エンゲルバートの業績とアイデアを多くの人に知らしめるべく文書化することを意味している。そのアーカイブEngelbart UnRev-II Colloquium at Stanfordは2006年現在も閲覧可能である。2000年12月、アメリカ大統領ビル・クリントンはアメリカ国家技術賞をエンゲルバートに授与した。2001年、英国コンピュータ学会(British Computer Society)は Lovelace Medal をエンゲルバートに授与した。2005年、エンゲルバートはコンピュータ歴史博物館(Computer History Museum)のフェローに選ばれ、社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会からノーバート・ウィナー賞を授与された。
[編集] 現在 (2008年)
現在(2008年で83歳)、エンゲルバートは自身の会社 Bootstrap Institute の取締役である。この会社は1988年、彼の娘クリスティーナ・エンゲルバートが設立した。カリフォルニア州メンロパークにあり、彼の最近の哲学とも言うべき集団的知性の概念を洗練させることを目的とし、Open Hyper-Document Systems(OHS) と呼ばれるものを開発している。2005年、エンゲルバートは米国科学財団からオープンソースプロジェクト HyperScope への資金援助を得た。HyperScope プロジェクトでは、Ajax と DHTML を使用したブラウザ部品を開発し、Augment システムの機能を再現しようとしている。HyperScope はエンゲルバートの目標と研究に基づき、グループウェアとグループサービスの開発により広いコミュニティが参加するよう計画された過程の最初の段階である。
[編集] 注
- ^ Thierry Bardini & Michael Friedewald, Chronicle of the Death of a Laboratory: Douglas Engelbart and the Failure of the Knowledge Workshop, History of Technology 23, 2002年, p193.
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- The History of Doug Engelbart and Interactive Computing
- As We May Work from IBM Symposium site
- Column by Robert X. Cringely
- Wired article: The Click Heard Round The World
- OpenAugment Consortium, Augment システムに関する資料を保管し公開している
- SRI mouse
[編集] NLSデモのビデオ記録
- Doug Engelbart 1968 Demo、MouseSiteにある90分のオリジナルビデオ
- Doug Engelbart 1968 Demo Google Video
[編集] Bootstrap Institute と Unfinished Revolution
- Bootstrap Institute
- Bootstrap Institute Bio
- Curriculum Vitae
- The Unfinished Revolution: Strategy and Means for Coping with Complex Problems; 2000年1月-3月、スタンフォード大学で行われたセミナーについて
- Engelbart's Unfinished Revolution; スタンフォード大学、1998年12月
[編集] インタビュー
- The Man behind the Mouse (BBC News Online)
- Doug Engelbart: Father of the Mouse
- Transcript 2003年、サンノゼ州立大学を訪れたときの記録
- Nerd TV, Inventer of the mouse Robert X. Cringely による1時間におよぶインタビューのビデオ記録
- Channel9 @MSDN インタビューのビデオ記録