セルビア王国 (近代)
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セルビア王国(せるびあおうこく)は、1882年から1918年にかけてバルカン半島に存在した国家。前身は1817年成立のセルビア公国。1878年まではオスマン帝国の宗主権下にあり、1918年成立のセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国に発展する形で消滅した。首都はベオグラード(セルビア公国時代の1819年 - 1839年を除く)。
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[編集] 歴史
[編集] セルビア公国の成立
カラジョルジェを指導者とする第1次セルビア蜂起(1804年 - 1813年)が露土戦争の終結により失敗し、一時的にオスマン帝国による支配が復活した後、1815年に豚商人のミロシュ・オブレノヴィッチを指導者とする第二次セルビア蜂起が起こる。この第二次セルビア蜂起の結果、1817年、ミロシュはオスマン帝国からセルビア公の地位を認められ、セルビア公国が成立する。この時点でのセルビア公国は、オスマン帝国のかつてのベオグラード県(シュマディア地方)をその領域として成立した。
その後の交渉の結果、1830年にセルビアは完全自治を承認され、オブレノヴィチ家によるセルビア公の地位の世襲も認められた。また、1833年には領土の拡大が認められるとともに、宗主国オスマン帝国への貢納が定められた。一方、国内では中央集権化を目指すミロシュと、従来からの村落自治による分権的体制を維持したい村落のリーダー(クネズと呼ばれる)などとの対立が激しさを増し、政治の混乱を招いていた。クネズなどの反ミロシュ派は立憲制の導入を求め、憲法による公の権力の制限と分権の維持を目指した。
ミロシュは憲法制定に抵抗し続けたが、1838年に憲法がオスマン帝国の勅令の形で公布されると、翌年にはミロシュは退位を余儀なくされ、息子ミランに譲位した。しかし程なくしてミランが亡くなったため、後継者を中央集権派が担ぐオブレノヴィチ家から出すか、分権派が担ぐカラジョルジェヴィチ家から出すかで再び混乱が起こる。一度はミランの弟ミハイロがセルビア公となったものの、1842年にクーデターが起こり、カラジョルジェの息子であるアレクサンダル・カラジョルジェヴィチがセルビア公となった。
この時アレクサンダルを担いでクーデターを行った勢力は、1838年憲法の擁護を掲げたことから「護憲党」と呼ばれる。護憲党による政治のもとで、ようやくセルビアにも安定が訪れ、近代的国家制度の整備が進められることになった。この護憲党の時代には国立銀行の設立や民法の導入などが行われ、官僚制と近代的な学校制度も整備された。近代的学校を卒業し、官僚となった人々は従来の政治の担い手であった地方の名望家に代わる新たなエリートとなり、やがて自由主義的な指向を持つ彼らが新たな政治勢力として登場してくることになる。
また、1844年には外務大臣のイリア・ガラシャニンによって「ナチェルターニェ」(「覚書」)と呼ばれる秘密文書が作成された。「ナチェルターニェ」で示された方針とは、近い将来にオスマン帝国が崩壊すると仮定した上で、その際にはロシアとオーストリアの介入を防ぎつつ、中世のセルビア王国の領域に基づいたセルビア人の一大独立国家を、セルビア公国が自らの手で建設しようとするものである。「ナチェルターニェ」はチャルトリスキ派の亡命ポーランド人の支援を受けて作成されたといわれ、以後のセルビア外交の指針となった。
この「ナチェルターニェ」で示されている政治思想は、当時まだオスマン帝国の支配下にあったボスニアやヘルツェゴビナ、オーストリア帝国の支配下にあったヴォイヴォディナなどに存在するセルビア人コミュニティをセルビアの領域に併合しようというものであり、このような政治思想を「大セルビア主義」という。この思想はやがてカトリックを信仰するクロアチア人やムスリムであるボシュニャクといった、宗教は異なるものの言語をほぼ同じくする全ての南スラブ人コミュニティの統合を目指す思想へと発展していく。
分権派に担がれて公位に就いたアレクサンダルだが、徐々に中央集権化を指向するようになり、再び地方の分権派の不満が高まっていった。1858年に議会が召集されると、かつてとは異なり分権派はオブレノヴィチ家のもとに集結し、アレクサンダルの廃位とミロシュ・オブレノヴィチの復位が決定した。1860年にはミロシュの後を継ぎ、ミハイロ・オブレノヴィチが再びセルビア公となる。分権派の支持のもとで再び公位を得たオブレノヴィチ家であったが、ミハイロは実際には専制的な中央集権化を進めてゆく。
ミハイロは将来の完全独立を見据えた軍備増強を図るともに、対オスマン帝国戦を意識して1866年にモンテネグロと、後にはギリシアとも同盟を結んだほか、ルーマニアとは友好条約を締結した。また、1867年にはセルビア領内に駐屯していた最後のオスマン軍部隊を撤退させることに成功した。他にもブルガリア人の独立運動への支援や、クロアチアの民族政党との接触などの積極的な外交を展開した。一方国内では強権的な政治姿勢に対する反感が募り、1868年にミハイロは暗殺された。また、ミハイロが推し進めた近隣国との同盟は死後ほとんどが形骸化した。
ミハイロが暗殺されたことにより、ミハイロの従弟の息子に当たるミラン・オブレノヴィチが新たなセルビア公となった。翌1869年、自由主義派のヨヴァン・リスティチが中心となって新憲法が制定され、これにより立法権を持つ一院制の議会が毎年召集されるようになった(それまでの議会は不定期開催であった)。新憲法で議会政治の枠組みが定められたことは、近代的な政党の誕生を促す結果を生み、こうして新憲法下で保守派と自由主義派の対立の構図がより明確な形で現れてくることになる。このような状況の中で、オスマン帝国との戦争を迎えることとなった。
[編集] 完全独立と王制への移行
1875年にボスニア蜂起が起こるとセルビアはこれに対し資金支援などを行ったが、オスマン帝国と開戦するかどうかで国内の政治対立が起こる。開戦に消極的な公や保守派に対し、自由主義派は積極的に開戦を主張した。最終的に自由主義派が主導権を握ることに成功し、1876年、オスマン帝国と開戦したもののオスマン帝国との戦力差は大きく、休戦を余儀なくされた。しかし、ロシアが介入し露土戦争が始まると状況が変わり、自由主義派の内閣のもとで再び開戦する。こうして戦勝国としての地位を得たことで、サン・ステファノ条約ではルーマニア・モンテネグロとともにオスマン帝国からの完全な独立と領土の拡大が認められた。
ところが、サン・ステファノ条約はイギリスとオーストリア・ハンガリー帝国の猛烈な反発を買って取り消され、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が締結された。これによりセルビア・モンテネグロ・ルーマニアは、改めて独立国と認められ、セルビアはオスマン帝国からニシュなどを獲得した。
ベルリン会議でセルビアに隣接するボスニアとヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリーの占領下におかれたにもかかわらず、会議におけるロシアの非協力もあって、セルビアはオーストリア・ハンガリーに接近していく。1882年にはオーストリア・ハンガリーの承認のもと、王制に移行し「セルビア王国」となる。1885年には東ルメリ自治州の併合問題を巡ってブルガリアと開戦するも、これに敗れて翌年ブカレスト条約を結んだ。
1903年の国王殺害のクーデターによって王位がオブレノヴィチ家からカラジョルジェヴィチ家に移ると、オーストリアを重視する政策を改め、周辺国やロシアとの友好を重視する政策に転換した。この結果、1906年には「豚戦争」と呼ばれるオーストリア・ハンガリーとの関税戦争が起こり、両国関係は悪化の一途をたどることになる。
1908年テッサロニキで青年トルコ革命が勃発するとオーストリア・ハンガリー帝国は1878年以来実効統治していたボスニア・ヘルツェゴビナを完全併合した。このことはセルビアとオーストリアの関係を一挙に悪化させた。また、サラエボ事件への直接の伏線となった。
1912年、オスマン帝国がイタリアに敗れ、リビアを奪われた。これに乗じ、ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシャはバルカン同盟を結成して、オスマン帝国に宣戦した(第1次バルカン戦争)。バルカン同盟が勝利し、戦後ロンドン条約でマケドニアを得、モンテネグロ以外の三国がこれを分割した。ところがマケドニアの分配をめぐって三国の思惑が紛糾し、セルビア・モンテネグロ・ギリシャとルーマニア・オスマン帝国がブルガリアに宣戦した(第2次バルカン戦争)。敗北したブルガリアは、同盟国に接近していった。
1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都サラエボを行進中に「黒い手」(黒手組)の大セルビア主義者ガブリロ・プリンチプに暗殺されるサラエボ事件が起こった。7月28日オーストリアがセルビアに宣戦し、第一次世界大戦がはじまった。セルビアは徹底的敗北を喫し、一時は滅亡の危機に追い込まれるが、1917年アメリカ合衆国が参戦したことで、最終的には戦勝国となった。
1918年、敗戦により解体したオーストリア・ハンガリー帝国から分離(正式には1919年のサン・ジェルマン条約により確定)したクロアチア・スロベニア・ボスニア・ヘルツェゴビナの3地域及びモンテネグロ王国と合同して、セルビア王国はユーゴスラビアの母体であるセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国を形成することで発展的に解消した。
[編集] 国内の様子
[編集] 経済
セルビアにおいて最も主要な産業は農業や畜産といった第一次産業であり、特に輸出用の豚の飼育が盛んであった。オスマン帝国への反乱の指導者となったカラジョルジェやミロシュ・オブレノヴィチも元々は豚を扱う商人であった。これは、豚を扱う商人のもとに資本が蓄積し、豚商人が地域の名望家となったことを意味している。一方で公国・王国時代を通じて工業化は進まなかった。豚戦争の時代には新たな販路の開拓や食肉加工業の発達などがあったが、工業製品は他国からの輸入に切り替わるにとどまった。
[編集] 近代セルビア王国の君主
- 1882年以前の称号は「公」。以後は「国王」。
- オブレノヴィチ家は第二次セルビア蜂起の指導者、ミロシュ・オブレノヴィチの一族である。
- カラジョルジェヴィチ家は第一次セルビア蜂起の指導者、カラジョルジェ(ジョルジェ・ペトロヴィチ)の一族である。
[編集] オブレノヴィチ家(公国)
[編集] カラジョルジェヴィチ家(公国)
[編集] オブレノヴィチ家(王国)
- ミロシュ(復位、1858年 - 1860年)
- ミハイロ(復位、1860年 - 1868年)
- ミラン2世(1868年 - 1889年、1882年以降は国王ミラン1世)
- アレクサンダル(1889年 - 1903年)