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ジョン・タルボット - Wikipedia

ジョン・タルボット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カスティヨンの戦いにおけるジョン・タルボットの死
カスティヨンの戦いにおけるジョン・タルボットの死

ジョン・タルボット(John talbot 生年不詳‐1453年7月17日)は第4代タルボット男爵リチャードの二男。彼は初代シュローズベリー伯(シュルーズベリーとも発音)で、百年戦争中のイングランド軍の主要な指揮官の一人として知られる。生年は、1384年と1390年の二つの説がある。発音は、トールボットと記されることもある。ウォーターフォード伯であり、また妻の権利によりファーニヴァル男爵であった。

目次

[編集] 家族

第4代タルボット男爵リチャードとストレンジ・オブ・ブラックメアの最後の領主の女性相続人であるアンカレットとの間に、シュロップシャーのブラックメアにおいて生まれる。タルボット家はノルマンディーのコー地方に起源をもつノルマン人の家系である。

タルボットは、1406年3月12日、モード・ネヴィルと結婚。モードは、第5代ファーニヴァル男爵であるトマス・ネヴィル(トマスは第3代ネヴィル・ド・ラヴィ男爵ジョンの息子)の女性相続人であり、彼女の権利によって、タルボットは1409年の議会に出席した。この結婚によって4人の子供を持った。

  • ジョーン・タルボット
  • ジョン・タルボット。第2代シュローズベリー伯。(1413年頃-1460年7月11日)
  • クリストファー・タルボット(1460年7月10日死亡)
  • トーマス・タルボット(父に先立ちボルドーで死亡)

また、1421年に彼の姪が死んだことによって、タルボットとストレンジの男爵領を手に入れる。

1425年9月6日、マーガレット・ボーシャンと結婚。マーガレットは、第13代ウォリック伯リチャード・ド・ボーシャンと、エリザベス・ド・バークリーとの間の娘である。

この結婚によって5人の子供を持つ。

  • ルイス・タルボット
  • ジョン・タルボット。初代リール副伯(子爵)(1426年頃-1453年7月17日)
  • ハンフリー・タルボット(1453年以前のいつか-1492年頃)
  • エリザベス・タルボット。第4代ノーフォーク公ジョン・ド・モーブレーに嫁ぐ。
  • エレアノール・タルボット(1468年死亡)。最初トーマス・バトラーに、次にイングランド王エドワード4世に嫁ぐ。


[編集] 初期の経歴

1404年から1413年にかけて、彼の兄であるギルバートとともに、オーウェン・グレンダワーの反乱に伴うウェールズ地方での戦争に従事。また、ウェックスフォードに領地を持っていたので、1414年の2月から5年にわたりアイルランドにおける国王代理(総督)になる。彼は、幾つかの戦闘を行い、オルモンド伯と激しく争った。アイルランドにおける苛烈な統治と、ヘレフォードシャーでの残虐行為により、彼は告訴されている。1420年から1424年にかけてフランスでの業務に携わっていたが、1425年にごく短期間にアイルランド総督に再び任じられている。

[編集] フランスでの経歴

このように、彼の経歴は荒々しい辺境の領主としてのものが多かったので、荒っぽい手腕が役に立つような役職が彼には用意されていた。1427年にふたたびフランスに赴き、メーヌ地方での戦闘とオルレアン攻囲戦で抜群の功績を立てた。 1428年から1429年にかけて行われたオルレアン攻囲戦で、彼はジョン・ファストルフ、第4代サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールウィリアム・グラスデールと共に指揮官として活躍した。しかし、ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍の手によってオルレアンが解放されると、タルボットは他のイングランド軍と共に敗走した。

オルレアンでグラスデールが溺死し、ジャルジョーでドゥ・ラ・ポールがフランス軍の捕虜となったが、その後もタルボットはモン=シュル=ロワールの戦い、ボージャンシーの戦い、パテーの戦いでフランス軍と戦った。しかしパテーで捕らえられ、彼は以後4年間虜囚の身となった。

彼はフランス軍の指揮官ジャン・ポトン・ド・ザントライユとの人質交換という形で解放された。彼とその軍隊はその後も軍事行動を続け、フランスから多くの町を奪回した。恐らく彼は当時最も大胆不敵な戦士でもあっただろうと考えられている。彼と彼の部隊は、フランス軍の前進にたいする緊急機動部隊とも言うべきものであった。彼の部隊は剽悍であった。1436年の1月、彼は小規模な部隊を率いていたが、ルーアンの近くのリ(Ry)で、ラ・イールとジャン・ポトン・ド・ザントライユとを敗走させている。翌年、クロトワでは、大胆にもソンムの町を通過し、ブルゴーニュの兵を敗走させている。1439年の12月には、奇襲による側面攻撃で、リッシュモン元帥の6000もの兵を潰走させ、翌年にはアルフルールを奪還している。1441年には、4回もフランス軍をセーヌ川やワーズ川の向こうに追い払っている。

1442年には、彼の為にシュローズベリー伯位が創設された。

1445年に、ヘンリー6世 (イングランド王)は、フランス王として彼をフランス大元帥に任じた。

1446年には、アイルランドの上級貴族としてウォーターフォード伯位が彼に授けられた。また、アイルランドの王室侍従長にも任じられている。


1453年、タルボットはカスティヨンの戦いで敗死した。彼の心臓は、シュロップシャーのウィットチャーチにある聖オークマンド教会に収められている。

彼の将軍としての指揮能力には疑問が呈されており、パテーの敗戦やカスティヨンでの誤った情報に基づく無謀な突撃がその証拠として挙げられている。

[編集] 関連項目


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