ジェローム・ラランド
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ジョセフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande、1732年7月11日 – 1807年4月4日)はフランスの天文学者である。
ブールアンブレス(現在のアン県)に生まれた。両親は法律を学ばせるために彼をパリに送ったが、滞在先にジョゼフ=ニコラ・ドリルの天文観測所があったことから天文学に惹かれ、ドリルとピエール・シャルル・ルモニエの弟子となった。法律の教育を終えるた頃には、ルモニエがラランドを観測者としてベルリンに送る許可をとり、1751年ベルリンにおいて南アフリカの喜望峰に赴いたラカーユと共同して月の視差と恒星の観測を行った。
観測の成果によってベルリンのアカデミーに加えられ、パリのアカデミーの天文観測者の職を得た。惑星の運動理論を研究し、1759年にアレクシス・クレローを助けてその年のハレー彗星の回帰する時期を正しく計算した。1762年にドリールがコレージュ・ド・フランスの天文学教授を引退すると、ラランドは後を継いで46年間その仕事を続けた。教師として ドランブル、ジュゼッペ・ピアッツィ、ピエール・メシャン、甥のミッシェル・ラランドらを育てた。1769年の金星の日面通過に関する著作で高い評判を得たが、難しい性格はいくらか人気を失わせた。ラランドの作成した惑星表は18世紀の間広く用いられた。1802年に天文学の功績を表彰するラランド賞を設立した。
彼は大の猫好きだったため猫座を設定したが、ボーデ他19世紀中頃のアメリカなど一部で支持されたものの、それ以外では顧みられなかった。彼が設定した他の星座――軽気球座、穀物番座、四分儀座も同様の運命をたどった。(四分儀座は流星群の名前としてのみ残存している)
また、月のクレーターにラランドの名前がつけられている。
[編集] 主な著書
- 1764年:Astronomie
- 2巻本。ラランドには astronomie と題する著書が何点かあるため、それらと区別するため特に Traite d'Astronomie と呼ばれた。これはプトレマイオスの Almagest やノストラダムスの les Centuries 同様、表題ではなく呼称である。(少なくとも Traite d'Astronomie などと題されたものは確認されていない)
- 1771年:Astronomie
- 前掲書の増補改訂版(第2版)。2巻から3巻へ。1781年には第4巻が刊行され全4巻に。
- 1792年:Astronomie
- 前掲書の第3版。第2版の1期分3巻のみを重版。
- 1773年:Astronomia of Sterrekunde(sic.)
- 前掲書第2版からのオランダ語訳本。訳者はストラッベ。江戸期の日本の天文学者が、西洋の天文学を学ぶ際に重用した『ラランデ暦書』のこと。
- 1774年:Abrégé d'astronomie
- 初学者向け天文学の概説書。
- 1783年:Éphémérides des mouvemens célestes pour le méridien de Paris, huit années, de 1785 à 1792
- ラランドによって改訂された「フラムスティードの星表」の新版が収録されている。旧版にはなかったフラムスティード番号が見られるが、同書が初めてではない。
- 1785年:Astronomie des dames
- 女性向け天文解説書。後に何度も重版されている。
- 1801年:Histoire Céleste Française
- 天の北極より南回帰線までの9等より明るい47,000を超える星が収録された星表。当時としては最大規模と精密さを誇った。1世紀前のイギリスのフラムスティードの15倍、同年発表されたドイツのボーデの星表と対比しても2倍を超えている。南回帰線以南は喜望峰に滞在していたラカーユが担当した。なお、近距離星の一覧などに散見されるラランド21185のようなカタログ・ナンバーは、同書ではなく1847年にフランシス・ベイリーが再編集した版のものである。
- 1803年:Bibliographie Astronomique: avec l'Histoire de l`Astronomie dupuis 1781 jusqu'a 1802
- 1802年までに出版された天文学書の文献目録と天文学史の解説を併録。