ウラルトゥ
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ウラルトゥは紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。
「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。王国は、ウラルトゥ語でビアインリ(Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン」(Van)の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる。
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[編集] 歴史
紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ(Uruatri)」または「ナイリ(Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラムあるいはその息子サルドゥル1世のもとで王国を形成した。
ウラルトゥ王国は、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至った。首都は現在のヴァンのあたりに置かれ、トゥシパ(Tushpa)と呼ばれた。
ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ(Rusa)がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗した。紀元前585年にスキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。その後はこの地にアルメニア人が定住した。
紀元後5世紀ごろ以降、ウラルトゥの存在は忘れ去られていたが、18世紀、19世紀の発掘によって再発見された。
[編集] 歴代国王
[編集] 黎明期
[編集] 拡大期
- サルドゥリ1世(紀元前834‐828年)
- イシュプイニ(紀元前828‐810年)
- メヌア(紀元前820‐785年)
- アルギシュティ1世(紀元前785‐753年)
- サルドゥリ2世(紀元前753‐735年)
- ルサ1世(紀元前735‐714年)
[編集] 衰退期
- アルギシュティ2世(紀元前714‐680年)
- ルサ2世(紀元前680‐639年)
- サルドゥリ3世(紀元前639‐635年)
- エリメナ(紀元前635‐629年)
- ルサ3世(紀元前629‐615?年)
- サルドゥリ4世(紀元前615‐598年)?
- ルサ4世(紀元前598‐590年)