ウォリス・シンプソン
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ウォリス・シンプソン(Wallis Simpson, The Duchess of Windsor, 1896年6月19日 - 1986年4月24日)は、イギリス国王エドワード8世の妻。 「王冠を賭けた恋」として知られるこの結婚のため、エドワード8世は退位してウィンザー公爵となり、彼女もウィンザー公爵夫人(The Duchess of Windsor)となった。
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[編集] 生涯
[編集] エドワード8世と出会うまで
アメリカのボルティモアの一族、ウォーフィールド家に生まれる。本名ベッシー・ウォリス・ウォーフィールド(Bessie Wallis Warfield)。生後5ヶ月で父を結核により失ってからは、下宿を経営する母と2人きりの苦しい生活を強いられる事となる。幼少時代は、小柄で決して美人ではなかったが、ボーイフレンドには恵まれており、常々「金持ちで、いい男を見つけて結婚するのが夢なの」と周囲に語っていたという。1916年にアメリカ海軍の航空士官ウィンフィールド・スペンサー・ジュニアと結婚したが、1927年に夫のDVに耐え兼ねて離婚した。1928年、ニューヨーク生まれのアーネスト・シンプソンと結婚した。アーネストは、父の生まれたイングランドに憧れ、イギリス国籍を取るためイギリス近衛歩兵連隊の少尉になった経歴がある。父の経営する会社のロンドン支店で働くうちに、社交界に繋がりを持つようになり、すぐに社交界内の花形になったウォリスは常々「今がとっても幸せ」と語っていたという。
[編集] 出会いと結婚
シンプソン夫妻を王太子エドワードに紹介したのは、当時の王太子の愛人であった、ファーネス子爵夫人テルマ・ファーネスであった。ファーネス夫人がニューヨークに出かけた1933年の冬頃、ウォリスは王太子の新しい愛人となった。
以降の2年間は、王太子から夫妻揃って幾度となくロンドン郊外の王室所有の別荘に招待される様になったが、次第にウォリスにのみ極端に緊密に接するようになり、ウォリス自身もその様な王太子に次第に惹かれていった。
この2人の恋を、当時のニューズウィーク誌は「さまざまな人種、階級、宗教からなる世界の5億人を統治する者が、アメリカ人と結婚しようとしている。その女性は個性的な魅力で、無名の一族から世界最強の王座へと登り詰めようとしている」(1936年12月12日号より)などと記している。
[編集] 結婚生活
ウォリスは夫の不貞を理由に、裁判において離婚を申し立て、1936年10月27日に勝訴した。同年12月11日にエドワード8世がBBCのラジオ放送を通じて退位を表明した際は、「後ろで、はね橋があがっていく。あなたを何もないところへ連れてきてしまった」と語ったという。これを機に、イギリス国内のマスコミはウォリスに対する攻撃を開始し、「アメリカの売春婦をやっつけろ」などとまで書き立るタブロイド紙もあったという。普段気丈なウォリスも、この時ばかりは精神的にダメージを受けたらしく、執拗に追いかけて来るマスコミから逃れる為に、カンヌの別荘に避難した。
翌1937年6月3日にフランスのトゥールで2人は挙式を挙げ、その際の婚約指輪は、かつてムガル帝国皇帝が所有していた世界最大のエメラルドを半分にした片方だった。ごく親しい16人の友人のみを招き、「あんなアメリカ女を王室の一員に加えるのか」などとウォリスを疎ましく思っていたイギリス王室からは誰も来なかった。エドワードにはウィンザー公の称号が授けられ、ウォリスは公爵夫人となったのだが、イギリス王室のウォリスへの怒りは解けそうにもなかった。特に、ウィンザー公の母であるメアリー王太后や、ジョージ6世妃となったエリザベスは、生来病弱なうえに吃音の障害を持つジョージ6世の体調を気遣い、彼を無理矢理王位につかせたと、ウォリスを憎んだ。フランスに暮らし、王族でありながら無視された存在の2人に目をつけたのは、アドルフ・ヒトラーだった。急速な勢力拡大によりヨーロッパで孤立していたナチス・ドイツは、イギリスの前国王を、「私的な賓客」としてドイツへ招いたのである。夫妻は、ドイツで熱狂的な歓迎を受けた。結婚以来、ウォリスを好意的に受け入れてくれたのはドイツが初めてだった。これに気をよくした夫妻は、ファシスト寄りの発言や行動が目立つようになり、慌てたイギリス政府はウィンザー公をバハマ総督に任命して2人をヨーロッパから離した。
ウォリスはナッソーに5年間暮らした。総督とはいえ名誉職であり、飼い殺しのような状態であった。ウォリスは、「ここは(ナポレオンが流刑にされた)セントヘレナ島よ。」と言って、バハマを嫌った。ウォリスが飛行機で何度もアメリカへ買い物をしに旅行する姿は、戦時下で苦難にあえぐ人々の批判の的となった。また、彼女は人種差別の傾向があり、アメリカの叔母に宛てた手紙の中で、バハマ人口の大部分を占めるアフリカ系住民を「怠け者」と侮蔑しており、この様な高慢ちきな性格から、写真家のセシル・ビートンからは「愛嬌のあるブス」などと扱き下ろされている。
総督の任務を終えた後、夫妻はフランスへ戻り、半ば引退の生活を送った。1952年に、ウィンザー公は弟ジョージ6世の大喪に列席するためイギリスへ戻ったが、ウォリスは招待されなかった。夫妻はイギリスにセカンド・ハウスを購入し、幾度かイギリスを訪問するものの、ウォリスは歓迎されず、「この国は大嫌いよ」と親しい友人に彼女はこぼしたという。夫妻は、イギリスのファシストと目され戦前にイギリスファシスト連合を率いていたオズワルド・モズレーと非常に親しくなった。
ようやく公的にウォリスが公爵夫人として招かれたのは、1967年のメアリー王太后生誕100年式典が初めてであった。ウィンザー公が目の手術の為にイギリスの病院に入院した際は、エリザベス2世とケント公爵夫人マリナ(ウィンザー公の実弟ジョージの未亡人)が見舞っている。イギリス王室のメンバーで、率先してウィンザー公夫妻との和解に動いたのはエリザベス女王だと言われている。エドワードが癌の手術を受けたときには、エリザベス2世はプリンス・オブ・ウェールズ、チャールズと見舞いに訪れた。
[編集] 晩年
1972年、夫エドワードが亡くなり、その葬儀の為ウォリスは初めて大公妃としてバッキンガム宮殿に滞在した。彼女は、義理の姉妹たち、王太后エリザベス、グロスター公爵夫人アリスらと並んで列席した。葬儀を終えたウォリスは、見送りに訪れた人々を一度も振り返らず、イギリスを去った。
ウォリスは女王の許しを得て、亡夫の所領であるフランスのボワ・ド・ブローニュの城で余生を過ごした。1976年に、義妹であるエリザベス王太后が訪問するが、ウォリスは体調不良を理由に会談を直前にキャンセルしている。2人のわだかまりは最後までとけなかった。
1986年4月24日、ウォリスは自宅でその生涯を閉じた。彼女の葬儀はイギリスで王族として執り行われ、遺体はウィンザー城近郊の王立墓地に葬られた。遺言により、遺産はパリのパスツール研究所に寄付された。パリに所有していた不動産の一部は、百貨店ハロッズのオーナー、モハメド・アルファイドが購入した。この建物は、アルファイドの息子ドディと元イギリス王太子妃ダイアナが事故死した後の1998年に売りに出され、売り上げは慈善団体に寄付された。