イザベル・ネヴィル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イザベル・ネヴィル(Isabel Neville, 1451年9月5日 - 1476年12月22日)は、「キング・メーカー」と呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘である。 父リチャード・ネヴィルに男子継承者がいなかったので父の爵位と所領を継承し、そのため彼女自身は政治関与はしなかったが、終生政治利用にさらされた。
イザベルは史料によってはイザベラ(Isabella)とする場合もある。
[編集] 生涯
イザベル・ネヴィルはウォリック伯リチャード・ネヴィルとアン・ネヴィル(Anne Neville)の長女としてウォリック城(Warwick Castle)で生まれた。 彼女が4歳の時(1455年)、薔薇戦争が勃発する。
この戦争で彼女の父はヨーク派の中心人物の1人として活躍する。 1460年にヨーク派の首魁であったヨーク公リチャードが敗死すると、その遺児で長男のエドワードを1461年にエドワード4世として即位させ、まだ幼かったエドワードの弟(ジョージとリチャード)は自身の居城であるミドルハム城に住まわせる等してヨーク派を支え続けた。
だが、エドワードの即位間もない1464年に、エドワードの結婚問題に端を発して父ウォリック伯と国王エドワードが対立する。次第に冷遇されていくウォリック伯は、自分の娘イザベルを王弟であるクラレンス公ジョージと結婚させようとする。 だが、キング・メーカーと呼ばれたウォリック伯と王弟のクラレンス公が姻戚関係になれば、自身の王位を脅かすに違いない事を知っていたエドワード4世は、この結婚を頑なに拒否し続けた。
エドワード4世の承諾が得られなかったため、結局イザベルとクラレンス公は1469年に叔父でヨーク大司教ジョージ・ネヴィル(George Neville)の立会いの許、カレーで内々に結婚してしまう。 この時イザベルは18歳。 彼女の最初の政治利用である。
こうして姻戚関係になったウォリック伯とクラレンス公は、1469年に同盟して国王エドワード4世に反旗を翻す。 これがエッジコート・ムーアの戦いである。 さらにウォリック伯は薔薇戦争の仇敵であるランカスター派とも同盟してエドワード4世に対抗するが、1471年のバーネットの戦いで父リチャード・ネヴィルが戦死したため、父が持っていたソールズベリー伯の爵位と所領は、イザベルが継承した。
この時代のイングランドの法律では、女性が爵位を継承した場合は、その夫は妻の爵位を代行できるのである。 つまりこの場合は、クラレンス公がウォリック伯の広大な所領を引き継ぐ事になった。 クラレンス公は彼女の死後もその権力を維持しようとする。 これが彼女にとって2度目の政治利用である。
イザベルとクラレンス公の最初の子供は、死産だったか早世したかで育たなかった。 1473年には長女マーガレットが生まれ、1475年にはエドワードが生まれた。 だが翌年、肺病かそれとも産後の経過が良くなかったかで、彼女は亡くなった。毒殺されたという説もある。